表紙
春風とバイオリン

 6


 男は壁にもたれたまま、ケラケラと笑い出した。
「びっくりしたなもう。 ローマの休日かよ」
「ローマ?」
 なぜここにイタリアが出てくるのだ。 活動シャシン、もとい、劇場映画などという下世話な物はほとんど見せてもらえないため、まき子は彼の言葉がとんと理解できなかった。
「いいの、わかんないなら」
 男は受け取った札を無造作にポケットへ押し込んだ。 その手を抜くとき、中身が引っかかってこぼれ出て、床に散らばった。
「あーあ、拾うの面倒だ。 ぜ〜んぶ無くなっちゃえ」
 そのまま、よろめきながら階段に向かう。 今ごろになって酔いが回ってきたようだった。
 まき子はしゃがんで、手早く拾い集めた。 白い大判のハンカチ、一万円札二枚、松脂〔まつやに〕のかけら、それに、なんと鍵の三つついたキーホルダー!
 すべてハンカチに包んで追いかけて、階段の途中でやっと追いついた。
「はい」
 男は立ち止まり、くっきりした二重瞼の瞳で、まき子を見返した。
「あげる」
「要りません」
 仕方がないからポケットに押しこもうとすると、男は急に拳を固めて、階段の手すりを殴った。 ゴンッという鈍い音がした。
 左手だった。 彼がもう一度拳を振り上げたとき、まき子がはっしとその手を掴んだ。
「おやめなさい!」
 筋肉が張り詰めた拳骨をぎゅっと握られて、男はたじろいだ。
「離せよ」
「そんな真似をしてはなりません」
 言葉遣いなんかもう構っていられない。 緊急事態だ。 まき子は弓道で鍛えた握力で、酔った男の手を押えこんだ。
「あなたはバイオリンをたしなまれるのでしょう? それなら指は、特に弦を押える左手の指は、何よりも大切になさるべきです!」

 男は、手を振り放そうとするのを止めた。 そして、虚ろな眼で横の壁を見やったまま、尋ねた。
「どうしてわかった?」
「松脂と、ハンカチで。 松脂は弓のすべりをよくするものだし、ハンカチは顎に挟んでバイオリンが動かないようにするのでしょう? 前に演奏会で、ソリストがそのようにしていました」
 男はがくんと首をうなだれ、低く笑った。
「そう…… お嬢様名探偵だな。 参りました」




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