表紙
春風とバイオリン

 5


 上のテーブルでは、がさごそと真砂子たちが席を立ってガラス張りの階段を下りてきた。 負けん気がメラメラと燃えあがったらしい。
 二人の連れのうち、美男を素早く選んで、真砂子はまき子の隣りに並んだ。
「あら、来たの? よくここだってわかったわね」
「『ディナール』は改装中だもの。 『ポップアップ』は六本木でドレスコードがうるさいし」
 これは本当だった。 パンフレットで確かめたのだ。
 真砂子はちょっとどぎまぎした。
「あ……そうだった? でもまあ、見つかってよかったわ」
 男がまき子を二度回し、離れてからまた、すっと抱き取った。 真砂子は顔をしかめ、聞き取れる声で独り言をつぶやいた。
「いつの時代のダンス?」
 まき子は平気で、傍をステップして過ぎるときに答えてやった。
「三十年ぐらい前かな。 もっとかも」
「悪目立ちしてるわよ」
「そう? あそこでもやってるようよ」
 まき子が目で示した方角を見て、真砂子のしかめ面はひどくなった。
 頭上で男がクックッと笑った。
「君って意外性の人だね。 面白いな。 ここはうるさすぎるから、サ店に行ってゆっくり話さない?」
 サ店……二、三回脳内変換してみて、まき子は喫茶店だと悟った。 そして、しめたと思った。 ダンスは楽しいが、どうにも音楽が大きすぎて鼓膜が痛みそうだ。 どんな口実でもいいから、早くホールを出たかった。
「そうね。 行きましょうか」
「あら」
 真砂子がぽかんとしているうちに、二人は手を繋いだままフロアを横切り、階段を駆け上って、あっという間にドアから出た。

 ドアを締め切ると、まき子より先に男のほうが壁に寄りかかってうめいた。
「ひー、うるせ! 前はあんなに音出してなかったのにな」
 粕谷の言う『悪の巣窟』から解放されたとたんに、まき子はきりっとなって、自分を取り戻した。
「楽しかったわ。 はい、立て替えていただいた入場料。 それでは、ごきげんよう」
 やはり興奮が残っていたのだろう。 つい、日常生活の挨拶が口からすべり出た。
 男は、眼をぱちっとさせて、皮肉な表情で首をかしげた。
「ごきげんよう? 君、学○院の卒業生?」
「ち、違ってよ」
 あせった。 そのせいで、また言葉遣いがおかしくなってしまった。




表紙 目次文頭前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送