表紙

羽衣の夢   205 おおらかに


 こうやって実家と婚家の両方に泊まり、赤ん坊の恵理〔えり〕に親しんでもらったことが、それからの若夫婦の育児に驚くほど役立った。
 まだ職場や学校に子供を連れて行くのが無理という環境の中、二人は子供を保育園に預けようと考えていた。
 だが、まず加寿が声を上げた。
「私には時間があまってるし、まだ丈夫よ。 登志ちゃんが出てる間、いつでも預かれるからね」
 加寿から電話をもらった美栄も、そう聞くと我慢できなくなった。
「加寿さんだけじゃ大変だわ。 うちも宿六〔やどろく:夫のこと〕が仕事してる間は暇だから、うちにも預けて〜」
 普通の嫁さんなら、板ばさみになった気分になるかもしれないが、登志子は平気だった。 両家にこまめに電話を入れ、余裕のある方に連れていって、信頼して任せた。


 初め、祥一郎は実家のほうを心配していた。
「うちは女がおふくろしかいないからな。 目が届くかな」
「学校にいる時間をできるだけまとめるようにしたし、長くても半日預かってもらうだけだから、大丈夫だと思う。 それに、子供はたくさんの人に会ったほうが、人見知りしない活発な子に育つって」
「育児書に書いてあった?」
「それもあるし、祥一ちゃんも結ちゃんもにぎやかに育ったでしょう? 二人みたいになってほしいの」
「えっ?」
 祥一郎は本気で驚いた。
「結二みたいな女の子? 嫌だぞそんなの」
 登志子は吹き出した。 晩の食卓で晴子秘伝のおいしい牛丼を口に運びながら、祥一郎は続けた。
「それに、いつも人に囲まれていたのは登志ちゃんのほうじゃないか」
「お母さんに助けられてからはね」
 登志子の口調がしんみりとなった。
「信じないかもしれないけど、私、今の恵理と同じころの記憶があるみたいなの。 小さい頃は、よく夢でいろんな人の悲鳴が聞こえた。 顔や髪の毛に熱いものが降りかかって、それから急に真っ暗になったのも覚えてる。 いくら泣き喚いても、誰も答えてくれないの」
 祥一郎は静かに箸を置き、食卓を回って妻の体に腕を巻いた。
 彼に寄りかかって、登志子は目を閉じた。
「ずいぶん長かった。 涙も乾くほど。 たぶん意識が薄れかけたときに、突然暗闇が割れて、光が差し込んできたの。
 だから私にとって、お母さんは神様。 深見の家族はみんな天使。 ほんとのことをいうと、暗いところは今でも苦手だけど、お母さんたちのおかげで、必ず明るくなると信じられるの」
 祥一郎は登志子の肩越しに、明るい照明の当たったクリーム色の壁を見つめていた。
 誰からも好かれる登志子の心にも、闇はあった。 いつかまた一人ぼっちになるのではないか、一瞬で愛する者たちとのつながりを断ち切られるのではないかという深い恐れが。
「こっちも頼りにしてくれよな」
 目をつぶったまま、登志子は微笑んだ。
「してるじゃない? 美栄お義母さんに任せておけば、恵理は大丈夫」
「息子の僕よりおふくろのこと信頼してる」
「そうかも」
「さては女同士で組んでるんだな」
「そうかも!」
 ふざけて、祥一郎は登志子を椅子から引っ張りあげ、軽々と横抱きにした。
「見てろ。 恵理を思いっきり甘やかして、おかあさんよりお父さんが好きって言わせてみせる」
「言うわよ、たぶん」
 登志子は少しも動じなかった。
「でも私だって負けてないからね。 甘やかさないけど」
 祥一郎は真面目になって頷いた。
「わかってるよ。 こっちだって本気でわがままにする気なんてないし」
「ちょっとぐらい甘やかしてもいいよ〜。 ふだん優しい父さんが、たまにビシッと怒るとすごく効くから」
「おう、それにしよう」
 登志子をそっと立たせると、祥一郎は額と額をくっつけて、低く尋ねた。
「もうそろそろ、いいかい? 離れて寝てると寂しい」
 額にちょっと力を入れて、登志子も軽く押し返した。
「いいよ、恵理のこっち側に来ても」








表紙 目次前頁次頁
背景:kigen

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送