表紙

羽衣の夢   204 幸せな日々


 前もって知らせておいたおかげで、医院に着くとすぐかかりつけの佐藤医師が診てくれ、ただちに産室へ入ることになった。 やはり出産が始まっていたのだ。
 それから二十分もしないうちに、祖母が弘樹に伴われて駆けつけてきた。
「入院手続き済ませたからね。 ごめんね〜登志ちゃん、心細かったでしょう。 もっと前にうちへ連れてきて、実家でゆっくり休養させてあげるべきだったのに」
「明日お母さんが迎えに行くって楽しみにしてたんだよ」
 弘樹が珍しく遠慮がちに付け加えた。 今は元気一杯の彼だが、幼い時死にかけたことがあり、病院が大の苦手なのだ。
 真っ白なシーツに横たわった登志子は、いつになく青い顔をしていた。 その様子で、弘樹はいっそうおびえた表情になりつつあった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
 珍しく加寿がむっとした表情になり、弘樹を軽く叩いた。
「大丈夫にきまってるじゃないの。 お医者様が順調だと言っておられたわよ。 送ってくれてありがとう。 もう帰っていいよ。 私はここでつきそってるからね」
「ほんとにありがとね」
 登志子も努力して、細い声を出した。
 明らかにほっとして、弘樹は登志子に手を振ってから、さっとドアを開いて消えた。


 夜になって、祥一郎が凄い勢いでやってきた。 伝言を見てすぐ、着替えもせずに飛んできたのだが、出産には間に合わなかった。
 彼が現われる十六分前に、登志子は文字通り珠玉のような女の子を産んでいた。


 次々と両家の家族が駆けつけてきた。 あまりに数が多いので、医院も困って、新しいお母さんをゆっくり休ませてあげてくださいと、面会禁止にしようとするほどだった。
 だが、登志子は全然苦にしなかった。 初産にしては早い四時間ちょっとで自然分娩するという安産だったし、日頃の鍛錬が役に立ってまだ体力が残っていたし、なにより余りに幸福で、みんなに無事生まれた赤ちゃんを見てほしかった。
 それで、その夜の記念写真が、十枚も残ることになった。




 実家の父母たちが歓喜するのはわかっていた。 それでも、婚家の義母がこれほど感激するとは、予想を越えていた。
 美栄は、恵理〔えり〕と名づけられた赤子を見るなり、口に手を当てて、しばらくぼうっと見つめつづけた。
 それから、嬉しさと誇りに満ちあふれた息子に感想を訊かれると、かすれた声で答えた。
「登志ちゃんにも、あんたにも似てる…… 優子〔ゆうこ〕の面影もあるよ」
 そして、ぽろぽろと涙をこぼした後、あわてて言った。
「ごめん、こんなめでたい時に泣いて。 優子を産んだ日のこと思い出しちゃってね」
 それは、空襲で失った美栄の長女の名前だった。
 晴子が無言で歩み寄り、美栄の肩を抱いた。 どちらも子供に死なれた母同志で、言葉がなくても心は通じた。


 退院後、登志子は一週間実家で静養してから、祥一郎と一緒に婚家の中倉家に泊まった。 女の初孫を喜ぶ美栄の気持ちを思い、義父や義母にも恵理をかわいがってほしかったのだ。
 玄蔵も、目を細めて恵理をあやした。
「男の子だと、ぞんざいにしても平気そうだが、女の子はやっぱり可愛い。 かわいがっても気がとがめねぇよ」
「親父、えこひいきだよ」
 結二がからかっても、玄蔵は平気で、上手に恵理を抱いて、ひょいひょい連れ回していた。
 滞在中、祥一郎は実家から仕事場に行った。
「お義母さんの手料理、久しぶりで嬉しいでしょ」
 登志子がそう訊くと、祥一郎はあっさり答えた。
「たしかにおふくろはいいけど、親父と結二が騒ぎすぎ。 登志ちゃん疲れたろう?」
「そんなことないわよ」
 登志子は本心から答えた。 裏表のない中倉の人々だが、あけっぴろげなようでいて、実は上手に気を遣ってくれていた。 それに皆子守りがうまくて、若くて経験のない新米父母はずいぶん助かった。
「むしろ、お世話になって申し訳ないと思ってるぐらいよ」
 通勤用のカッターシャツを着ていた祥一郎は、苦笑して振り返った。
「それ本音?」
「本音。 私、かまととじゃないもの」
 すぐ前の畳にどっと座り込むと、祥一郎は登志子の頬を撫でた。
「不思議だな。 どこでもちやほやされてきたのに、なんでこんなに調子に乗らないんかな〜」









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