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羽衣の夢   203 予定は未定


 登志子が陣痛を起こして、前から通っていた産院に行くことになったとき、折悪しく祥一郎は仕事で会社にいた。
 気丈な登志子は、祖母や母の助言できちんと必要品を詰めたバッグを出し、まず医院に電話して、これから行くと伝えてから、次に実家へ知らせた。
 電話に出たのは祖母の加寿だった。
「登志子です。 お祖母ちゃん? あのね、いよいよ生まれそうなんで、これから小橋〔こばし〕病院に入院します」
「え?」
 珍しく、祖母はおろおろした。
「どうしよう。 今、えぇと、二時十八分……祥一郎さんいないんでしょう?」
「大丈夫。 近くの医院だし、ハイヤー呼ぶから」
「晴子がね、留守なのよ。 女学校の同窓会で。 登志ちゃんが心配だから行きたくなさそうだったんだけど、まだ予定日まで一週間以上あるし、久しぶりに親友の篤子〔あつこ〕ちゃんが長野から来るっていうんで、行きなさいって私言っちゃったの」
 まるで自分のせいのように焦る祖母を、登志子は慰めなければならなかった。
「お祖母ちゃんのせいじゃないって」
 なおも言葉を継ごうとしたとき、背骨がぎしっと鳴るほどの痛みが襲ってきて、登志子ははっとなった。 妊娠期間中は、小橋医師が感心するほど順調だった。 この分だと、初産だというのに出産も順調に進んで、早く生まれてしまうかもしれない。
 声が震えるのを押さえ込んで、登志子は電話口に呼びかけた。
「じゃ、これからハイヤー呼んですぐ行くから。 心配しないでね。 大丈夫だから」
「あっ、登志ちゃん?」
 加寿はまだ言うことがありそうだったが、登志子は思い切っていったん切り、電話機の傍に置いてあるメモを調べた。 その間にも、また目まいがするほどの収縮が襲ってきて、間隔が次第に狭まってきているのが実感された。
 車を呼んだ後、祥一郎の声を聞きたいという切実な気持ちになった。 しかし、かけても入院には間に合わないし、出産がせまっているらしいとはいえ、あと数時間、もしかすると半日以上はかかるだろう。 彼をむやみに心配させたくなくて、帰宅したらすぐ来てもらえるよう、大き目の紙に伝言を書き、テーブルの上に置いておいた。


 昼間なので道路の渋滞はなく、いったんタクシーに乗ってからは五分ほどで病院に直行できた。 車が来るまでの八分間は、脂汗が出るほど苦しく、丈夫な登志子でも立って下まで階段を下りられるか不安になるほどだったが、意思の力で手すりを固く握り、必死で段を踏みしめた。
 踊り場まで来たとき、背後からバタバタとサンダルの音がして、三号室に最近入居した鳥羽〔とば〕という若奥さんが追いついてくると、すぐ肩を貸してくれた。
「がんばって。 もっと寄りかかっていいから。 これでも私バドミントンやってて、腕力は強いの」
「すみません」
 登志子は息を切らせ、心からありがたいと思った。 ここで転んだりしたら、大事な子供がどうなるか、考えただけでもぞっとする。
「予定日が……まだなんで、油断してたんです」
「赤ちゃんが早く外の世界を見たくなっちゃったのね」
 そう言って、大柄な若い奥さんは豪快な笑顔を見せた。
「うちの姉もそうだったのよ。 姉さんったらお産婆さんも決めてなくて、一家総出で大騒ぎになったの。 でも赤ちゃんが小さめだったからすごい安産で、早いほうが楽ね〜なんて、けろっとしてた」
 その実話で、登志子の不安はずいぶん慰められた。 五ヶ月ほど前に鳥羽夫妻が越してきたとき、アパート暮らしが初めてという奥さんにゴミの出し方や近場の良い店などを案内し、仲良くなっておいてよかったと思った。
 








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