表紙

羽衣の夢   1 失った命と

 ほぼ真夜中に東方から飛んできたB29爆撃機の大群は、不気味なエンジン音を響かせながら、東京下町の空を覆った。
 春先の寒空で北風が吹きすさぶ中、低空飛行で侵入してきた敵機はなかなかレーダーに引っかからず、警戒警報は8分も遅れた。 その隙をついて、B29は新型焼夷弾〔しょういだん〕を地表が埋めつくされるほど撒き散らした。 古くからの木造家屋が軒を並べてひしめいていた深川近くは、地上1キロの高さまで炎をあげ、丸一日燃えさかった。


 その夜、晴子〔はるこ〕は神田区の実家に身を寄せていた。
 これまでは郊外の貸家で、出征した夫の留守を守っていたが、初めての子はやはり実の親元で産みたくて、一ヶ月ほど前に移ってきたのだ。
 生まれてきたのは、顔立ちの整った女の子だった。 こんなに小さいのに手の爪、足の爪まできちんと揃い、桜の花ぐらいの大きさしかない口を開けると、驚くほど夫の吉彦〔よしひこ〕の面影に似ていた。
 愛しかった。 この世にこんな大切なものがあるだろうかと思った。 まだ動かないほうがいいと言われた産後一日で机に向かい、夫へ報告の手紙を書きつづけた。 書いても書いても、あふれる喜びを伝えきれないもどかしさがあった。


 だが産後四日目、添い寝していた赤ん坊が不意に元気を失い、青ざめていった。
 母の加寿〔かず〕が大急ぎで医者を呼びに行ったが、連れてきたときにはもう呼吸が止まっていた。


 チアノーゼの出た赤子の体を診察してから、医師は沈んだ表情で、原因不明の突然死だと言った。 母は手ぬぐいを掴んで号泣した。
 しかし晴子は涙が出なかった。
 こんなのは現実じゃない。 ささやかながら命名式もやり、鴨居に『登志子〔としこ〕』と筆書きした半紙を、誇らしい気持ちで張ったばかりだ。 その名前は、身ごもったと知らせたときに大喜びの夫が書いてよこした候補の一番目で、志を大きく、という意味と、いとし子、という響きを組み合わせたものだった。
「男の子なら登志男、女の子なら登志子」
 その日からずっと合言葉のように繰り返し、誕生を待ち望んでいたのに。 まるで幻のように息をしなくなるはずがない。


 戦時下だということもあり、葬式はささやかに行なわれた。 葬儀中も、小さな骨壷を仏壇前に安置した後も、晴子は一滴の涙もこぼさず、ただ静まり返っていた。
 その後は、機械的に家事をこなした。 手帳を持って配給を受け取りに行き、世帯主である伯父の隆雄一家の慰めにも穏やかに感謝した。
 それでも、まだ心のうちでは認めていなかった。 あの子は生きている。 どこかに行っているだけだ。 きっと戻ってくるはずだ。


 3月10日の大空襲の夜は、子供を失って20日目だった。 真夜中にサイレンが鳴り響き、用心して服を着たまま寝ていた人々は飛び起きた。
 目の前の道に、そして黒く流れる神田川に、大きな火の矢のような爆弾が突きささる。 焼夷弾は空中で細かく分かれ、風に乗って家々を襲った。
「消せ! 並んでバケツ渡せ!」
 あちこちで叫び声が轟き、もんぺや国民服姿の男女が雲霞〔うんか〕のように湧き出てきた。 みんな目を吊り上げ、恐ろしいほど必死の形相だ。
 晴子もためらいなく、必死で消火する人々の列に加わった。 ここ三週間で初めて、生きているという実感が全身を包んだ。
 止めてやる。 何としても鬼畜の敵機から家を守って、ぎゃふんと言わせてやる!
 水分のある物が何でも持ち出された。 こんにゃくや豆腐を投げる人までいた。 みんな顔がすすと埃にまみれて黒くなり、疲れで足が震えてきたが、やがて屋根や板塀にくすぶる炎が一つまた一つと消えていくのに伴って、更にやる気が湧いてきた。
 そして遂に、奇跡が起こった。 川のこちら側のボヤはすべて消し止められ、2時間後に爆撃が止んだ後も、町は残った。


 翌朝、東京の空はまだ黒煙と炎に巻かれ、ラジオのニュースでは隅田川が死体で溢れていると報道された。
 神田川も油が浮き、人や動物、家財道具、家の残骸などが延々と流れていた。
 川に面した裏庭で片付けをしていた晴子の目に、大きなトランクが映った。 頑丈そのもので、金属の鋲が打ってあり、表には色々な国のホテルのシールが何枚も張ってあった。
 いろんな物が流れ着く中で、なぜその革トランクだけに目を引かれたか、よくわからない。
 ともかく晴子は庭木戸を開けて河岸に出て、ぷかぷかと浮いているトランクを棒で引き寄せてみた。 上等で造りがいいので、中まで水がしみこまなかったらしい。
 バネ式の金具を試しに押してみると、パチンと音を立てて開いた。
 その瞬間、晴子は息を止めた。 絹のポケットがついた立派なトランクの中には、袷〔あわせ〕の着物にくるまれた小さな赤ん坊が入っていた。



表紙 目次前頁次頁
背景:kigen

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送