表紙

羽衣の夢   197 てらわずに


 それは不思議な体験だった。
 祥一郎が初めてのようには感じられなかったが、情熱は初々しかった。 登志子は贅肉のないつややかな背中の感触を楽しみ、どんどん深まるキスに夢中になった。
 抱きしめられながら、ひとつの思いが脳裏をよぎった。 二十年前、あの凛々しい遠ノ沢敏広、本名鈴木敏夫の腕に抱かれたとき、母もこのようにとりのぼせ、緊張の極で場違いに笑い出したくなり、相手の肩に爪を立てたい衝動に駆られたりしたのだろうか。
 今の自分より年下で、たぶんずっと純情だった若い日の母が、急に身近に感じられた。 経験してみなければ分からないことが、この世には一杯あるんだ。
「大好き」
 本能的に言葉がすべり出た。 登志子の柔らかい頬に唇をすべらせながら、祥一郎も熱っぽい息で囁き返した。
「その倍も、君が好きだ」
「倍返し?」
「うん、ずっと追いかけてたから、きっと倍ぐらいだ」
「でも……」
 言いかけた口を、唇で封じられた。 彼はとても幸せそうで、いきいきしている。 言葉はもう必要なかった。




 翌朝は気まり悪いかと思ったのに、そうでもなかった。 二人でシャワーを浴びて、それからバスタブにもつかって、出てから背中を流し合った。
 祥一郎はますます楽しげになり、下のビュッフェでバイキング形式の朝食を取っている間も、さりげなく登志子のために好物を手際よく集めた。
 ホテルには新婚さんと明らかにわかるカップルが何組かいて、新婦たちの視線が次第に祥一郎に集まりはじめた。 彼のすっきりした容姿だけでなく、いかにも新妻を大切にしている様子がうらやましいようだ。 そんな結婚相手の考えがわかるのだろう。 新郎たちはどこか居心地悪そうだった。


 それから二人は観光に出かけた。 どちらも健脚だし、天気はいいし、スポーツシューズ(まだスニーカーとは言わなかった)をちゃんと用意してきたため、軽々と街を散策して、写真も適当に撮って、余裕で楽しめた。
 昼食は、街角で見つけたパン屋の付属レストランで、バラエティ・サンドを食べた。 おいしかったので満足して、肩を抱き合って近くの公園に行き、泳いでいる家鴨〔あひる〕に麩の餌をやった。


 次の日は、人並みの旅もしようという初めからの計画で、新婚向きツァーに加入していた。 バスで名所旧跡を回り、集合写真も撮った。
「何だか家族のためにアリバイ作ってるみたいだな」
 忙しくあちこち引っ張りまわされる途中で、祥一郎が登志子に囁いた。
 登志子は笑って、バスの中で写真係のガイドが撮ったポラロイド写真をバッグから出してみた。
「プロはさすがにうまいわね。 祥一ちゃんの笑顔が本物そっくり」
「なんだ、それ?」
 祥一郎もくすくす笑った。
「僕の笑顔なんだから、本物じゃないか」
「よく撮れてるって意味。 私の撮ったのより」
「えー? まだ現像してないのに、どうしてわかる?」
「えー、私のほうが写真撮るのうまいって思ってる?」
「うまいか下手かは別にして、君の撮ってくれたほうが大事だ」
「うほっ、あなたのお世辞のほうがうまい」
 とたんに祥一郎は息を呑み、ぼうっとした口調になった。
「今、あなたって言った? 言ったよね。 いい響きだな」
 自分の言ったことに気づかなかった登志子は、一瞬言葉に詰まった。
 そして、初めて照れくさくなった。








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