表紙

羽衣の夢   190 準備は着々


 生みの母と別れて戸外に出たとき、時刻は三時を回っていた。
「私はもう少し残って、住職様とお話をしていくわ。 気をつけて帰ってね」
「はい。 じゃ、結婚式のときに」
「どんなことをしても行くわ」
 そう言いきった瞬間、嘉子の眼が強い決意を秘めて光った。
「私達は時代に押し流されたけれど、こずえちゃんは皆に祝福されるすてきなお婿さんを見つけて、しっかり生きていくのね。 頼もしいわ」
「そんな……」
 登志子は困って頬を染めた。 この母こそ、恋人と赤子を失う悲劇の中から、不死鳥のように立ち直った強い人なのに。
「誰かがすばらしいことを言っていたわ。 そうそう、未来は今の積み重ね──たしかそういう言葉だった。 いい今を重ねていってね」
 嘉子が立ち上がったので、登志子もバッグを取って立った。
 とたんに抱きしめられた。 一度だけ、ぎゅっと強く。
 体が離れると、嘉子は涙と笑いの混じった声で言った。
「あら嫌だ、また背が伸びたでしょう。 私より高くなっちゃった」




 驚きと嬉しさのあまり緊張した登志子は、実の両親と会っている間中、わくわくしていた。
 帰りの電車でようやく興奮が落ち着き、短く充実した時間を振り返る余裕ができた。 そして初めて、泣きたい気持ちに襲われた。
 娘を失った慙愧〔ざんき〕の念から、もう子供を望むまいと決心した父。 二度も結婚を許されず、家庭を持てないままだった母。
 二人に比べて、私は何て幸運だったのだろう。 大切に育てられ、好きな人に愛されて、一つの反対もなく式に臨むなんて。
 だからこそ、大切に今を育てよう。 未来を思い悩むより、実の母の言葉に従って、今を積み重ねて未来を作ろう。
 指先で目尻の水滴を弾きとばすと、登志子はサッと髪を払って、すっきりした足取りで阿佐ヶ谷の駅に降りていった。


* *


 夜なべは吉彦が許さなかったが、それでも晴子は猛然と縫い物に励み、予定期間の半分ちょっとで、見事な打ち掛けを作り上げた。
 出来上がった金襴緞子〔きんらんどんす〕の傑作は、二間続きの和室に飾られ、男の子たちでさえ傍を通るときにはどたばた走るのを止めて抜き足差し足で歩く、というほどの威光を放った。
 たぶん一番目を奪われたのは、祖母の加寿だったろう。 一日に何度も見に行き、感心しきりで眺め回し、友達を何人も呼んで自慢した。
 豪華衣装を着るのが登志子だから、知り合いたちもいっそう興味をそそられた。 いったいどれだけ美しいお嫁さんになるんだろうと、皆が思った。
 弘樹でさえ褒めちぎった打ち掛けを見て、冷静に批評したのは滋一人。
「重そう」
というのが、彼の第一声だった。
「お姉ちゃんが力持ちでよかったね。 これ着てカツラつけたら、普通よろめくよ」
「もう、夢のないことを」
 加寿が嘆いていると、晴子がひょいと顔を出して言った。
「大丈夫よ、うまく着れば。 式場でお嫁さんが気分悪くなるのは、服が重いからじゃなくて、着方がきつすぎるからなの。 その点、うちには着付け名人の加寿おばあさまがいますからね」









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