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羽衣の夢   189 結婚の陰に


 遠ノ沢という苗字は、妻を迎えたとき養子縁組して得たものだった。
 彼はそう話しただけで、くわしい事情は口にしなかったし、登志子も訊かなかった。 ただ、その家庭に子供がいないことだけは、遠ノ沢の短い言葉からわかった。
「わたしの血を分けた子がこの世にいた。 夢としか思えないよ」


 それからも遠ノ沢は、登志子の話をいつまでも聞きたがった。 一時間が軽く過ぎ、とうとう嘉子が心配して、時計を見てせかすまで。
「敏広さん、もうこんな時間。 誰か心配して探しはじめたら大変よ。 梢……今は深見登志子ちゃんのことは、私ができるだけ手紙に書いて送るから」
「ありがたい」
 遠ノ沢は名残惜しそうに呟き、若さと魅力にあふれた一人娘を、もう一度しっかりと見つめた。
「結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
「いいな嘉子さんは、式に行けて」
 そこで初めて、遠ノ沢は本音を見せ、悔しさを露わにした。 ほんの一瞬だったが。
 嘉子は無言で、卓上に置かれた遠ノ沢の拳に手を置き、ぎゅっと握りしめた。
 その瞬間、登志子は稲妻のように悟った。 二人の絆は切れていない。 不倫とはいえないかもしれないが、心が繋がっているのは間違いなかった。


 大事を取って、まず遠ノ沢が裏から迎えの車に乗って出ていった。
 その後、半時間以上、母と娘はしんみり話し続けた。 そこで登志子は、遠ノ沢の結婚の真相を知った。
「遠ノ沢さんの奥さんの曜子〔ようこ〕さんは、前に結婚していたことがあるの。 そのとき子供に恵まれなくて、離縁されて実家に戻ってきていた。
 彼女は優しい人でね、自分が敏広さんを好きになりすぎているとわかったとき、彼にふさわしい花嫁候補を探そうとしはじめたのよ。 きっと傍にいるのが辛かったんでしょうね。
 その気持ちを悟った敏広さんは、会社を辞めるか、曜子〔ようこ〕さんと一緒になるか、しばらく悩んだの。 もう子供を持つ気はなかったので、気心の知れた良い人だからと、曜子さんに申し込んだのよ。 私もそうしてくださいと勧めたわ。 男が一人前にやっていくには、奥さんの力が大きいもの。
 それで、曜子さんだけでなくお父さんも大喜びでね、半ば強引に養子にされたのよ。 おかげで最初は財産目当てと陰口されたらしいけど、会社が前の倍になった今は、そんなことを言う人は一人もいないわ」
「でも遠ノ沢さんは……お父さんは」
 登志子は苦労して言い直した。
「県知事になってしまったから、もう会社の経営はできないでしょう?」
「ええ、そうよ。 議員をしている間は会長として相談に乗っていたけれど、もうすっぱりと後継者に譲ったの。 ちゃんとそういう人材を育てていたわけね」
 そこで嘉子はしんみりとなった。
「曜子さんは本当にできた人で、私のファンクラブに入って、いろいろ気を遣ってくれるの。 そりゃ微妙な雰囲気もあるけど、遠ノ沢家の方たちはみんな大人なの」
 向こうにも複雑な感情はあるだろう。 さっきの光景から見て、遠ノ沢の想いは未だに嘉子にあった。 ただ、明らかに誠実な彼は、妻もきっと大事にしているはずだった。











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