表紙

羽衣の夢   187 寺にいた人


 ほっそりした若い僧侶に連れられて、登志子が向かったのは、つげとつつじの丸い植え込みが並ぶ先にある本堂の勝手口だった。
「こちらから入って、右の廊下をお通りください。 左側の二つ目の部屋でお待ちです」
「ありがとうございます」
 登志子が涼やかな声で礼を言うと、僧は再び陽光を見たように目を半ば閉じ、はにかんだ笑顔になって、頭を下げて去っていった。


 地味な薄ねずみ色の襖〔ふすま〕は、ぴったりと閉まっていた。
 登志子は敷居の前で膝を折り、中に向かって声をかけた。
「失礼します」
 すぐに襖の向こうから、嘉子の声が柔らかく応じた。
「どうぞ」
 引き手に手をかけて開くと、そこは広々とした和室だった。 地味な襖の裏、つまり部屋の内側は、別次元のように見事な山水画を描いた襖紙が美しく張りめぐらされていた。
 だが、膝で入って襖を閉めた登志子の目には、芸術的な襖の模様よりも、紫檀〔したん〕の座卓に向かい合って座った男女の姿が、一瞬で飛び込んできた。
 二人とも、見覚えがあった。 一人はもちろん、懐かしい実の母。 そしてもう一人は、テレビの画面と新聞の一面でおなじみになった顔だった。


 仕立てのいいダブルの背広を着こなしたその男性は、大きめの座布団にややくつろいであぐらをかいていたが、静かに入ってきた登志子を見た瞬間に、凍りついた。
 目には見えない強烈な力に押しつぶされて、本当に動けなくなったようだった。 上等な眼鏡の奥に隠された眼が、しばらくまばたきを忘れた。
「よく来てくれたわねぇ」
 嘉子がしみじみとした口調で、登志子に呼びかけた。
「どうかこっちに来て、座ってちょうだい」
「はい」
 登志子も緊張の極にいた。 返事が自分のものではないように響くほど。
 嘉子はそれから、前に座る遠ノ沢敏広知事に視線をやり、低くなだめるように話しかけた。
「すみません、前もって言わなくて。 言えばあなたは、何をおいても必ず会いに行くと思ったの」
 遠ノ沢は、かすかに首を振った。 その視線は、登志子が目に入った瞬間からずっと、自分に恐ろしいほどよく似た顔に据えられたままだった。
 やがて彼の口が動いた。
「こずえ……?」
 嘉子に誘われても動けず、襖の前に座ったままだった登志子は、無意識に答えた。
「はい」
 とたんに遠ノ沢の顔が、歪んだ鏡に映ったかのように崩れた。
「生き延びていた?」
「はい、母が……深見の母が、川から拾って育ててくれました」
「そんな奇跡が、起きることがあるんだなぁ」
 強い意志の力で、遠ノ沢は表情を元に戻したが、口元は細かく震えていた。
「立派に育った。 こんなに長い年月、二十年と八ヶ月も、ふがいないわたしの代わりに、育てていただいた」
 登志子は目を見開いた。 実際の生まれ月で計算すれば、確かに生後二十年と八ヶ月のはずだった。
 実の父は、亡くなったと思っていた娘の歳を、数えて暮らしていたのだ。











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