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羽衣の夢   179 心を決める


 成人した後、登志子の気持ちは微妙に揺れ動いていた。
 永すぎた春、という小説を読んで、どきっとしたのもその頃だった。 その中には、婚約中の若い男女が、なかなか結婚しないでいるうちに飽きが来てしまう、という微妙な内容が書いてあった。
 祥一郎のことを、会えば会うほど好きになる。 自分の気持ちが変わることはないと確信できるが、彼の方は?
 結婚が天国でないことは知っている。 登志子が知る限り誰より理想的な家庭を築いている父の吉彦と母の晴子でさえ、たまには口争いするし、家族の病気や悩みで疲れきることもある。
 だから登志子は、ふわふわした夢は抱いていなかった。 ただ、こんなに話が合い、心から好きになった人と、一番愛し合って情熱にあふれている時に、新生活を始められればと願うようになった。
 祥一郎がそう望んでいるのは、うすうすわかっていた。 このところ、デートした後に別れるのが難しくなっているのだ。 彼はなかなか手を離さず、ときには冗談交じりに引っ張られることさえあった。
「このまま連れていけたらな。 どこか便利なところに部屋を借りて、登志ちゃんと暮らしてる夢を見るんだ」
 給料の一部は家に入れているが、ボーナスのほとんど全部を貯金しているという祥一郎だ。 先の準備に怠りはないのだろう。
 彼となら、少々の困難は手に手を取って乗り越えていけるはずだ。 心の絆がもっとも強いこの時期なら、いっそう楽に。


 もうじき長く楽しい夏休みが終わるという日に、登志子はまず誰よりも先に、母の晴子に話してみた。
 やはり気持ちを一番わかってくれるのは、じかに育ててくれた母だし、同性で、家族の中では年も近い。 母がどう感じるかは、とても重要だった。
 いつも弟たちの友達や加寿の知り合い、それに晴子が最近取り組んでいる編物教室の仲間、たまには父の吉彦の友人や関係者などが入れ替わり訪れて、人の出入りが絶えない深見家において、その朝はたまたま誰も他にいず、二人だけでケーキ作りをするという幸運な時間が持てた。
 だから、小麦粉や砂糖をきちんと計って混ぜながら、登志子はさりげなく切り出した。
「あのね、学生結婚ってどう思う?」
 卵の黄身と白身を分けていた母は、手を休めずに訊き返した。
「どう思うって? 賛成かってこと?」
 登志子は内心はっとしたものの、軽い調子で話を続けた。
「早すぎるとか、学業との両立は大変かとか」
 分けたボウルを流しの横に置いてから、晴子は娘に顔を向け、真面目な口調で答えた。
「専業主婦より時間のやりくりは大変でしょうけど、共働きに比べたら楽じゃないかな」
「そうね」
 泡だて器をフックから外すと、晴子は微笑んだ。
「応援するわよ。 結婚したいなら」




 その夜、晴子は夫の帰りを待って、加寿と三人で密かな『大人会』を開いた。
 場所は加寿の和室。 ビールとおつまみを座卓に並べて、大人組はなんとなくわくわくしながら話を進めた。
「あの子たちが婚約してから、もうじき一年になるわ。 登志子も成人だし、そろそろ一緒になる時期かも」
「祥一郎ちゃんも最近、待ちきれない雰囲気になってきたわねぇ」
 加寿もうなずいた。 吉彦だけは少しためらっている風情だったが、娘を愛する父としては当然の態度といえた。
「どうかな。 まだちょっと早いんじゃないか?」
「お見合いなら待てるでしょう。 でもあの二人は、とりわけ祥一ちゃんは、子供のころから一筋に想い続けてきたんだから」
 加寿の言葉に、夫妻はどちらも目を見張った。
「え? そうなんですか?」
「知らなかった〜」
 加寿はやや誇らしい気持ちで、祥一郎が打明けてくれた本心を、娘夫婦に語った。 それで婚礼が少しでも早まるなら、祥一郎は心の秘密を話したのを後悔するどころか喜んでくれるだろうと、よくわかっていた。











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