表紙

羽衣の夢   174 祖母の感慨


「中学生のときからだから、もうずいぶん昔だなぁ」
 石鹸の泡で白くなった自分の顔を、祥一郎はじっと鏡の中に見つめた。
「初めはわからなかったです。 なんで顔を見ると口がきけなくなるのか、とか」
「驚いた」
 加寿が小声で、ひそひそと呟いた。
「祥一ちゃんは、いつも落ち着いて見えたから」
 水音がして、祥一郎が顔をつるりと拭いてから、洗面所を出てきた。 そして、加寿と並んで壁に背をつけて寄りかかった。
「今でも、朝起きると変な気持ちなんですよ。 本当に登志ちゃんと婚約なんかしたんかな〜、全部夢だったんじゃないかって」
「そんな。 あの子は私から見ても確かに綺麗でいい子だけど、普通の人間よ」
「それは、加寿おばさんが彼女に惚れてるわけじゃないから」
 祥一郎は低く言い返した。
「まともに名前を呼べるまで六年もかかったなんてこと、覚えがないでしょう? 母がよく言ってますよ。 登志子ちゃんはまるで、天女みたいだねって。 洋服なんかより、羽衣が似合いそうだって」
 話しながら、祥一郎は口を尖らすようにして苦笑した。
「だから結二も、よく言ってたんです。 お兄ちゃんには無理な相手だ、羽衣の夢だって」
 加寿は思わず頭を上げて、横の大きな青年を慈しむような眼差しで眺めた。
「結ちゃんもあなたの気持ちを?」
「ああ、もちろんです」
 事もなげに、祥一郎は認めた。
「近所の男の子たちは、ほとんどそうでした。 彼女にみんな憧れてました。 いるでしょう? そういうアイドルみたいな子」
 だが、単なる憧れと真剣な想いは違う。
 加寿はそう感じた。
「祥一ちゃんはその子たちより本気だったのね」
「そうなんでしょうか。 自分じゃわからない」
「ともかく、他の男の子にはチャンスはなかったと思うわ」
 加寿は思い切って口にした。
「登志子は、いつもあなたに頼ってたもの。 他の男の人に相談を持ちかけるところなんて、見たことがない」
「でも、普段は特に会いたがらなかった。 何かあるときだけで」
 隠し切れない切なさが、その口調ににじんでいた。 加寿はどう言って慰めたらいいかわからず、固く目をつぶってから、頭を絞った。
「あの子はね……見た目より用心深いの。 小さいときからそうだった。 もしかしたら、トランクに入って川を流れているうちに、周りの地獄を感じ取って、そうなったんじゃないかしら。 赤ん坊でも、一度は死を覚悟したかもしれないし。 ぴたっと閉まるトランクに入れられて、空気が少なくなってきたでしょう?
 だから、自分から何かを望んだことが、ほとんどないの。 そこにあるものを感謝して受け取って、よくなるように努力する。 そういう生き方を、ずっとしてきたのよ」
 これまで感じ取ったことを言葉にするのは、なかなか難しかった。 加寿の額に、苦心の果ての汗がにじんできた。
「あまりにもいい子すぎる。 私はそんな気がしてたわ。 でも婚約してから、登志子は変わった。 ずっと活き活きして、人間らしくなってきたわ。 そういうと言葉が変だけど、でもそんな感じがするの」










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