表紙

羽衣の夢   160 父は心配で


 気持ちの乱れが残ったまま、登志子は自動的に家へ帰りついた。
 玄関を入って、引き戸を閉じると、ようやく緊張がほぐれた。 うちに戻れば、いつでも安心だ。
「ただいま」
 妙に細い声が出た。 すると、父が一階奥の書斎から姿を見せて、急ぎ足でやってきた。
「お帰り。 どうした? 顔色悪いよ」
 やっぱり。
 登志子は言い訳を考え、すぐ思いついた。
「まだお昼食べてないの」
 これまで考えなかったのが不思議な状況だが、確かな事実だった。 登志子だけでなく鞍堂までが、昼食を取るのを完全に忘れていたのだ。
 鞍堂さんのことだから、どこかの店にちゃんと予約してあったにちがいないのに、と、登志子がぼんやり思っていると、父が更に近づいてきて、
「ともかく上がって」と、せきたてた。


 母と祖母は二人で買物に行っていて、弟たちも遊びに出ていた。 だから吉彦はよけいに、様子のおかしい娘を気遣った。
「チャーハンでも食べるか? 着替えてる間に作ってやるよ」
「え? ああ、ありがとう。 お湯だけ沸かしておいてくれる?」
「何を言う。 お父さんのチャーハンは、あの滋でも、うまい、うまいと言って食べるんだぞ」
「おいしいのは知ってる。 ただ、忙しいのに悪いかなと思って」
「そんなことはないさ。 今日は朝と昼兼用で十一時頃に食ったんで、そろそろ腹がすいてきた。 一緒に食べよう」
「それなら嬉しい。 お願いします」
「ほい」
 父は何となくいそいそと、チャーハンに入れる具を探しはじめた。


 部屋で普段着に着替えながら、登志子は頭をめぐらした。 鞍堂社長との話の内容は、口が裂けても打ち明けられない。 嘘は下手だが、頭のいい父をごまかすには、何か考えつかないといけなかった。
 ゆっくり階段を下りていくと、卵とエビとラードの混じった食欲をそそる匂いが辺りに広がっていた。 そして茶の間には、ドンと大盛りになったチャーハンだけでなく、インスタントのお吸い物までちゃんと碗に入って並んでいた。
「さあ、たっぷり食べてくれ」
「おいしそう。 今度は二人とも、晩御飯が入らなくなるかもね」
「大丈夫だよ。 今夜は手巻き寿司にすると言ってたから。 あれならあっさりしてるから、いくらでも入る」
 登志子は笑って、いつもの席に座布団を敷いて座った。 父と斜め向かいになる場所だった。
 湯気の立つ皿を前にすると、お腹がグーッと鳴った。 いただきます、と手を合わせて仲良く食べていると、胃袋だけでなく心も温まった。
 しばらく、父は何も訊かなかった。 そして、登志子の血色が戻り、目が明るくなるのを見てとってから、さりげなく言葉を選んだ。
「鞍堂さん、急に仕事が入ったのかい?」
「それもあったわ」
 そこまでは本当のことが言えて、登志子の良心の呵責は少し減った。
「途中で腕時計のアラームが鳴って、急いで電話かけてた」
「休日でもいろいろあるんだろうな」
「そうね、きっと。 鞍堂さんは、横浜で育ったんだって。 だから、連れていってくれたの。
 それでね、せっかく仲良くなれたのに残念だけど、お互いのためにもう会わないほうがいいって」
 父は相槌を打たず、黙って箸を動かしていた。 話のつじつまが合わないのかな、と感じて、登志子は少し焦った。
「私が祥一ちゃんと婚約したと言ったら、喜んでくれた。 ほっとしたみたいだったわ。 鞍堂さんにも好きな人がいるって。 でも会長のお父さんは許してくれないだろうって、寂しそうに」
「ほんとなのか?」
 不意に父が、鋭い視線を浴びせてきた。 登志子は素直にまっすぐ見返した。 今のくだりは完全に事実で、隠すことは何もなかったから。
「本当よ」
「じゃ、なぜ昼食を忘れた? ふつうは考えられないだろう? あんな遠くまで車で連れていって」
「私が断ったの」
 覚悟を決めて、登志子は偽りの説明にとりかかった。
「もう騒がれたくないから会わないって決めたのに、二人でレストランに入ったところを万一見られたりしたら、まずいでしょう?」
 そこで本心から吐息が漏れた。
「一人だけで外で食べるのは気が進まなかったし。 食事は一緒に食べなくちゃ」
「そうだよな」
 父は微笑み、最後の一口で皿をきれいに拭い取ったように食べた。
「もしかして、社長がせまったんじゃないかと心配したじゃないか」
 登志子は目を丸く開き、心から笑い出した。
「ないない! そういえば、鞍堂さんとは手つないだこともなかったんだわ。 結局、私のことをどう考えていたんだろう。 きょうだいがいないから、妹の代わりだったのかな」
「なんだよ。 腹が減っただけで青い顔してたわけか。 まだまだ子供だな」
「えへへ。 もうしばらくスネかじりさせてね」
「仕方ない。 コブが四つもあって、スネがミイラみたいに細くなりそうだが」
 登志子は父に顔をくしゃっとしてみせ、自分もきれいにチャーハンを食べきった。







表紙 目次前頁次頁
背景:kigen

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送