表紙

羽衣の夢   157 その人の名


 やはりそうだったんだ。
 実の父は、私がこの世に生きていることを全然知らない。
 そう知ると、登志子の胸に奇妙な喪失感がこみあげてきた。 同時に、そこまで人生の階段を上るのにどれほど努力し、苦労を踏み越えただろうと思うと、自分の存在で足を引っ張ってはいけないと、強く思った。
「鈴木さんは、私が生まれたことは知っているんですか?」
 鞍堂は一瞬うつむき、それから肩越しに振り返って、静かな海岸に打ち寄せているゆるやかな波に目をやった。
「知ってる。 空襲で行方不明になったと聞いて、すごく落ち込んだ。 自分が傍にいたら守ってやれたかもしれないのに、と言ったきり、何日も口をきかなくなったそうだ」


 急に、浜の空気が爽やかに冴えわたった気がした。
 登志子は胸一杯に息を吸い込み、ここに来て初めて、笑顔になった。
「大事に思ってくれたんですね?」
 とたんに鞍堂は、激しく振り返った。 そして光る目で登志子の笑顔を見つめ、表情をくしゃくしゃにした。
「そうだ! なのに僕は、簡単に君を消そうとした。 加納嘉子さんが直接会いに来て、もう一度手を出したら刺し違えて死ぬとまで言ったときも、ヘマをしたもんだとしか思わなかった」
 でも今は後悔している。 登志子にはそれがわかった。 なぜかはよく理解できなかったが。
「スケートリンクで逢ったのは、偶然じゃなかったんですね」
 鞍堂は短くうなずいた。
「今度やったら秘密を全部ばらしてやる、と加納さんに脅されたもんでね。 君がどこまで知っているか心配になったんだ。
 それで様子をうかがいに行った」
「社長なのに自分で?」
「危ないことは一人でやらないと。 仲間を作れば危険が増えるだけだ」
 そこで彼は両手を握り合わせ、苦い微笑を浮かべた。
「行かなきゃよかったな。 君と弟さんたちを見なきゃよかった。 まるで小さいお母さんみたいでさ。 それもえらく話のわかる、若くて綺麗な自慢のお母さんで」
 登志子は赤くなった。
「え? 母親ですか?」
「いいお姉さんって、あんなものなのかもしれないんだな。 きょうだいがいないから、新鮮で」
 自分が味わったことのない家庭的ななごやかさに、彼は目を奪われたのかもしれない。 もう、始末しなければならない邪魔物とは思えなくなってしまったのだ。
 鞍堂は後ろに手を回し、うつむき加減にまた歩き出した。 登志子も横に並んでついていった。
「僕をどんなに嫌ってもいいよ。 ただ、鈴木のことは口をすべらせないでほしいんだ。
 君がわざと人に言うはずがないから。 知り合って、よくわかったから」
 そう、私は決して秘密を他人に告げたりしない。 大切な家族や実の父母を、騒ぎに巻き込むようなことは、絶対にできない。
 鞍堂さんには私のことがよくわかっている、と、登志子は思った。 殺されかけたのは衝撃だったが、彼を憎む気持ちは不思議なほど湧いてこなかった。
 吹っ切れた顔で彼を見上げて、登志子は明るく答えた。
「はい、鈴木さんのことと、それに貴方のことは、家族にも話しません。 日記にも書かないから、安心してください」
 ゆっくり歩きながら、鞍堂はしばらく登志子を見つめ続けていた。 それから静かに言った。
「ありがとう。 信じるよ。 これまで人を百パーセント信じたことはないのにな。
 君は思ってるだろう? もしバラしたら、僕が全力で君と家族をつぶすって。 確かにそうするかもしれないが、それより先に、君は約束を守る子だと信じられるんだ。 不思議だな」
 本当に不思議そうだった。 奇妙な連帯感に包まれて、もうしばらく歩いたところで、海の売店の前に来た。 すでに休業中で、ベンチは片付けられ、板戸が閉まっていた。
 店の前で立ち止まると、鞍堂は風から登志子をかばうように風上に動いて、一つの名前を口にした。
「君の父親は、鈴木敏夫。 今は改名して、遠ノ沢敏洋〔とおのざわ としひろ〕。 神奈川の新しい県知事だ」







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