表紙

羽衣の夢   154 急な呼出し


 登志子は驚いた。 鞍堂は真剣で、なにか重大なことが起こったようなしゃべり方をしていた。
「ええ、はい、どこでですか?」
「あのさ、ちょっと遠くて悪いんだけど、江の島に行きたいんだ。 一人で来てくれとは言わない。 阿佐ヶ谷の駅まで車で迎えに行くよ」
 わざわざ神奈川の海まで?
 登志子はますますびっくりしたが、断ろうとは思わなかった。 ただ、とても不思議だった。 なぜ鞍堂社長は、自分のような普通の女子大学生に、こんなにかまうのだろうか。


 次の日曜日、午前十時ではどうか? と訊かれたので、登志子は承諾した。 たぶん車内では鞍堂と二人きりだろうが、不安はなかった。 祥一郎にも話したことがあるように、鞍堂の視線には『兄』を感じさせる温かさだけがあって、男のぎらつきはまったくなかったのだ。


 約束前日である土曜日の夜に、親にはどこへ誰と出かけるか告げた。
「何か大事な話があるんで、鎌倉まで来てくれって」
「登志子に?」
 父も母も、いぶかしげだった。
「またマスコミが噂を流したとか?」
「そうじゃないといいけど」
 それは本当に困る。 祥一郎に嫌な思いをさせたくなかった。
「ちゃんと聞いていらっしゃいね。 もちろん失礼のないようにだけど」
 祖母が心配そうに言うので、登志子は笑ってなだめた。
「気さくな人だから大丈夫。 できるだけ早く帰ってくるね」
「社長さん運転うまいんでしょうね」
 晴子は、そっちのほうを気にしていた。


 そして日曜日。
 言われた通り、駅の北口で待っていると、ごく普通の大衆車が近くに止まり、ドアが開いて、若者が手招きした。
 登志子は思わず、目をぱちぱちさせた。 鞍堂社長が、街によくいる平凡な男の子に見えたのは、初めてだった。
 すぐ近づいて乗り込みながら、登志子は言わずにいられなかった。
「こんにちは、まるっきり雰囲気が違いますね」
 鞍堂は声を出さずに笑い、灰色のプルオーバーの上に重ねた紺色のハーフコートの裾を引っ張った。
「僕だって、いつも背広を着ているわけじゃないさ。 来てくれて、ありがとう。 じゃ、すぐ出かけよう」


 道路の混雑は少なく、二時間足らずで車は七里ケ浜の海岸についた。 その間、二人は時たま短い会話を交わすだけで、鞍堂は運転に集中していた。 彼の話し方はやさしかったが、どこか緊張しているようにも見えた。
 高台の駐車場に車を預けた後、開けた景色を二人並んで見た。 もう十一月で、季節外れの海に人影は少なく、黒い犬に棒を投げて遊んでいる若いカップルが一組いるだけだった。
 楽しそうな犬に目をやりながら、登志子は鞍堂に続いて浜に下りた。 彼は犬連れのカップルに背を向け、人のいない左手にどんどん歩いていった。
 登志子がショートブーツで、さくさくと砂を踏んでついていくと、やがて鞍堂は止まった。 そのまま江の島まで歩いていく気はないらしい。
 見上げた空は薄曇りだった。 風はない。 なんとなく鬱屈〔うっくつ〕した風景の中で、ようやく鞍堂は口を開いた。
「この間、僕の育ちをちょっと話したよね?」
 登志子は一瞬とまどい、ためらいがちにうなずいた。 彼が正式な子ではないという話は、確かに聞いた。
「はい」
「終戦になるまで、この近くで育ったんだ」
 改めて、登志子は興味を持って周囲を見回した。
「いいところですね」
 鞍堂は髪をかきあげ、皮肉な笑顔になった。
「まあね。 のどかに見えるけど、戦後すぐは占領軍が鎌倉の屋敷をのっとって、きれいな白壁にペンキ塗ったりしてたんだ。 土足でドカドカ上がるし、せっかくの豪邸がめちゃくちゃだよ」








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