表紙

羽衣の夢   149 実感が湧く


 初めてのキスは、不思議な感じだった。
 唇をそっと押し当て合っただけなのに、そこから熱が広がって、かすかにしびれたような感覚が残った。
 顔を離した後が、お互い気まり悪かった。 目を合わせると、ぎこちなさが襲ってきそうだ。 登志子は思い切って祥一郎のコートの打ち合わせに手をかけ、そのまま顔を埋めてしまった。
 彼は速く息をついていた。 まるで全力疾走した後のように。 登志子の額を胸に感じると、その息遣いがいったん止まり、それからひとつ、深呼吸が続いた。
 そんなとき、小波〔さざなみ〕のような話し声が次第に近づいてきた。 それでも二人は動かなかった。 体がお互いに吸い寄せられたようになって、離せなかったのだ。
 登志子は目を閉じ、無意識に微笑んでいた。 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、という昔の諺が頭に浮かんだ。 思い切って飛び込んだ彼の胸が、これほど心地よくて安心だなんて、思ってもみなかった。
 これなら、もっと早く決断すればよかった。
 そんな、ちょっと勝手なことを考えながら、登志子は祥一郎に寄りかかっていた。
 そのとき、近くまで来た話し声が、ふっと止まり、それにつれて足音も聞こえなくなった。 曲がっていったのかな、とぼんやり思っていると、おばさん風の地味な声が、ひそひそ言った。
「なに? ドラマのロケ?」
 高くてオロオロした声が小さく答えた。
「カメラないよ。 ちがうんじゃない?」
 そこでようやく自分たちのことを言っているのに気づき、登志子はあわてて座り直した。
 風が木々の間をわたってきて、艶々しいまっすぐな髪を持ち上げ、顔に吹きつけた。 すぐ祥一郎の手が伸び、乱れた髪を指で優しく払った。
 とたんに、地味な声が反論するのが聞こえた。
「ぜったいロケよ。 隠しカメラで撮ってるのよ。 ふつーの子があんなにポーズ決まる? ねえあんた、カメラで写しとこうよ」
 これには、ちょっと面白がっていた祥一郎も驚いた。 すぐ登志子を庇うように立ち上がらせて、二人の観光客に背を向け、そそくさと歩き出した。
 二人から遠ざかりながら、登志子は声を立てずに笑っていた。 気持ちが高ぶって、興奮ぎみなのが自分でもわかった。
「なんであんな勘違いを?」
「ここと井の頭公園は、ロケが多いんだ」
「ポーズなんか決めてなかったわよね?」
 祥一郎も笑顔になった。
「そんな余裕なかったな」
「私も」
 くっくっと笑って、彼はもう一度、登志子の髪を一房指にはさみ、少年のような声で言った。
「ね、手つなごうか」
 登志子はこくこくと頷いて、差し出された祥一郎の手をしっかりと握った。









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