表紙

羽衣の夢   143 待ち合わせ


 その日、強引な取材が気になって、登志子は珍しく講義に身が入らなかった。
 椿沢は先に聴講を終えて帰ったので、一人で考え込みながら校門を出ると、通りの向こうに停まっていた黒い車の運転席から男が降りてきて、登志子を呼び止めた。
「すみません、深見さんですか?」
 名前を呼ばれて、登志子はしぶしぶ立ち止まった。 さっきのことがあるので用心しなくては思った。
「そうですが」
 すると男は声を落とし、ていねいな口調で訊いた。
「駅前に『ジャンヌ』という喫茶店があるのをご存知ですか?」
「はい」
 登志子が戸惑いながら答えると、男は早口になった。
「そこで鞍堂社長がお待ちです。 お詫びしたいとのことで」
「お詫びって、鞍堂さんは別に何も……」
「そうですが、ご迷惑をかけたようなので、ぜひと」
 そう言われては断れない。 登志子はいかにも真面目そうな顔立ちをした三十代の男性に、淡く微笑んで頭を下げた。
「わかりました。 これから行きます」
「よろしくお願いします」
 ほっとした様子で、彼も一礼すると車に帰っていった。


 『ジャンヌ』は高級なたたずまいの店で、学生はあまり行かず、自営業者やサラリーマンが社用の待ち合わせによく使っていた。
 登志子も、場所は知っていたが入ったことはなく、ちょっと気後れした気分で自動ドアをくぐった。 そして見回すと、抑え目の照明の向こうで、鞍堂が片手を上げながら腰を浮かせるのが見えた。
 静かなクラシック音楽が流れる店内には、コーヒーを飲みながら調べ物をしている中年男性と、書類を並べてしきりに話し合っているビジネスマン二人とが、離れて座っているだけだった。 どちらも自分たちの作業に没頭していて、入ってきた登志子に目もくれない。 だから安心して、鞍堂のテーブルまで歩いていけた。
 丸いテーブルに向かい合って座ると、鞍堂は軽く眉を寄せて、申し訳なさそうな表情になった。
「不意に呼び立てて申し訳ない。 それにここまで送らなかったことも。 目立ったらかえって迷惑だと思ってね。
 いいかげんな記事が出たことを、早く謝りたかったんだ。 あんなときに海岸で軽々しく近寄った僕が悪かった」
「あんなとき?」
「本社の設立百年祭でね、会長がクルーザー使って派手にやったものだから、マスコミが取材に来てたんだ。 でもあの程度のことを、わざわざ記事にするなんて、ほんといい加減にしてほしいよ」
 一気に言い終えると、彼は登志子の希望を訊いて、カフェオレを注文してくれた。
「今日、週刊誌の記者が押しかけてきたんだって? 気分悪かったでしょう?」
「そんなには。 弟の友也〔ゆうや〕にスケートを教えてくれただけだと言ったら、変な顔されました」
 鞍堂は苦笑いした。
「まさにその通りだもんな。 あの雑誌には釘を刺しておいたから、記事にはしないはずだ。 他のもたぶん、もう手を出してこないと思う」
「よかったです」
 登志子は率直に答え、運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、おいしいのに驚いた。
 鞍堂は少しくつろいだ様子で、学校のことを尋ねた。
「大学はどう? 期待通りだった?」
「講義はだいたい面白いです。 たまには眠いのもありますけど」
「教授がじいさんで声がよく聞こえないとか?」
「そういうときは前に席を取る人と、後ろに行く人と、二つに分かれてます」
「深見さんは前に行く方なんだ。 そして後ろは気持ちよく寝てると」
「クラスの人数があまり多くないんで、代返が効かないんですよね」
 二人はくすくす笑いあった。 友也が前に形容したように、鞍堂は影のある顔立ちで、決して親しみやすいタイプではない。 だがなぜか最初から、登志子は彼と気軽に口がきけた。 どこかの部分で波長が合う感じだった。







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