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羽衣の夢   125 平和が戻る


 登志子が嘉子に連絡したいときは、『苅野奈々子〔かりの ななこ〕』という名前を使うことに決まったと、父は言った。
 すぐ気がついて、晴子が指摘した。
「仮の名って意味ね?」
「そう。 この名前なら、ファンレターにまぎれて、いくらでも出せる」
「加納さんは、本当にいい方だったわねぇ」
 加寿がしみじみと呟いた。


 遅くなったけど、朝御飯の支度をしなきゃ──登志子は、自分が一番若くて体力があるんだからと、家族を思って立ち上がろうとした。
 そのとたん、ぐらりと体が傾いた。 平静なつもりでいたが、やはり早朝から衝撃の連続で、気持ちも体も疲れきっていたらしい。
 隣にいた吉彦が、すぐ腕を出して支えた。
「大丈夫か?」
 父の腕は頼もしい。 登志子は半分目をつぶりながらも、笑顔で答えた。
「ちょっと疲れたみたい。 でも平気よ。 もう何も起きないと教えてもらって、ほっとしたんだと思う」
「そうだよな」
 万感の思いをこめて、吉彦は娘の手をぽんぽんと叩いた。 登志子は改めて、安らぎの表情で集っている年上の家族たちを見回し、心の底から感謝した。
「私のためにいろいろ不自由な目に遭わせちゃって、ごめんなさい。 ずっとありがとうございました」
「やだ登志子、あなたこれまで親に苦労をかけたことないじゃないの。 病気しないし、悪いことも一切しない。 並みの親よりずっと楽させてもらったんだから、これぐらい」
 晴子が日頃の陽気さを取り戻して、弾む口調で答えた。 加寿もすぐ後に続いた。
「私達はむしろ楽しかったわよ。 山や海で遊べて。 気の毒だったのは吉彦さんだけかも」
「今年の都心は特に暑くてねぇ」
 吉彦も調子を合わせ、声を出して笑った。


 大人たちと登志子がぞろぞろと和室から出ていくと、廊下の端で見張っていた友也が金切り声を上げた。
「いたよ、弘樹兄ちゃん! やっと出てきた!」
 すぐに居間から首を突き出した弘樹が、声変わりしかけのドラ声で文句を言った。
「また姉ちゃんから上だけでこそこそやってる。 なんの秘密会議なのさ?」
「もうそろそろうちに帰ろうかって」
 登志子がとっさに言うと、居間の奥から滋まで顔を覗かせて、三人でいっせいに歓声を上げた。
「わーい!」
「やった〜〜!」
「あれ、俺が来たのに退屈だったのか?」
 最後に現われた祥一郎がふざけて弘樹のシャツの背中を引っ張ると、少年たちは慌てて弁解を始めた。
「ううん、すっごく面白かった」
「僕もボーイスカウトに入ろうかなって思ってるんだけど」
「たださ、うちに帰りたいだけなの。 なんて言うんだっけ。 ホームシシ?」
「ちがう! ホームシック」
 友也と滋のやりとりも、日常のゆとりを取り戻していた。 晴子が壁の時計を見て、びっくりした。
「え? もう十一時半?」
「そうだよー、僕たち、またお腹すいちゃった」
「おにぎりおいしかったでしょう?」
「うん! おかかと梅干と、挽肉の入ったのと。 肉入り初めて食べた。 すっごくおいしかった!」
「それに沢庵〔たくあん〕とハム。 祥一ちゃんって何でも上手なんだね」
「おい、そこまで言うとお世辞にしか聞こえないぞ」
「でも肉入りのおにぎりはほんとに凄かったよ。 甘辛味でさ。 ねえお母さん、今度うちでも作って」
「はいはい」
「あ、返事は一回って言ってるでしょ、いつも僕達に?」
「はい」
 晴子は素直に言いなおした。








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