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羽衣の夢   124 これからは


 それから、加納嘉子は両手をそろえて、再び前にいる夫妻に深く一礼した。
「私の娘はあの恐ろしい夜に、天国へ召されたと信じきっていました。 それなのに、命を助けてくださっただけでなく、こんなに立派に育てていただいて……お宅の皆様は慈悲の仏様です」
 晴子の顔が、泣き虫の子供のように歪んだ。
「こちらこそ、この子がいなかったら、今ごろどうなっていたかわかりません。 私のほうが助けてもらったと、思っています」


 それから二時間あまり、両家はそれぞれの思い出を語り合った。 いくら話しても記憶は尽きず、ときには涙ぐみ、また笑いがはじけることもあった。
 その中でも、嘉子は決して登志子の父にあたる人の名前を口にしなかったし、今どうしているかにも触れなかった。 吉彦たちには、嘉子の決意が自然に伝わっているようで、自分たちから訊こうとしないままだった。
 濃密な時にひたっていて、人々は周りのことを忘れた。 それで、遠慮がちに襖の向こうから声がしたとき、何度も目頭を拭って話に聞き入っていた加寿が、ぎょっとなって飛び上がった。
「あの、失礼します。 弘樹君たちにはおにぎり食べてもらったんですが、お父さんたちがどこに行ったか、そろそろ気にし始めてるもんで」
「まあ大変」
 晴子が大急ぎで立ち上がった。
「ありがとう、祥一郎さん。 今行きます。 ごめんなさいね、朝食の支度までしてもらっちゃって」
「いえ。 じゃ」
 足音が遠ざかっていくと、嘉子が改まった表情になって、別れを切り出した。
「お邪魔しました。 今日温かく迎えていただいたこと、一生忘れません。
 梢は、戸籍に載っていないんです。 父がどうしても許してくれませんでした。 乳離れするまでは育てさせてくれるつもりだったようですけれど、その後は養女に出したでしょう。
 産んでから二ヵ月半、一緒にいられて幸せでした。 こうやって最高のご家庭の一員にしていただいて、もっと幸せです。 勝手なことを申しますが、どうかこれからもよろしくお願いいたします」
 吉彦の穏やかな顔に、微妙な表情が動いた。 彼を見慣れている晴子は、隠しきれない安堵の気持ちを、そのかすかな表情に感じ取った。
 やはり実の親に取り上げられることを、内心で恐れていたにちがいなかった。
 嘉子も彼の気持ちに気づいたのだろう。 ちょっと寂しげな笑いを浮かべて、付け加えた。
「私が目につくようなことをしなければ、登志子ちゃんはいつまでも安全です。 ただ……」
 願いを口に出しかねている様子に、加寿が反射的に応えた。
「写真をお送りします。 本人もお手紙を差し上げたいでしょうし」
「そうですよ。 公表はできなくても、ファンの一人として交流させていただきます。 それなら大丈夫ですよね?」
 吉彦の力強い言葉に、嘉子は目をしばたたいた後、笑顔を大きくした。 すると、周囲が明るくなるような華やぎがただよった。


 祥一郎がうまく気を遣って、下の三兄弟の気をそらしておいてくれたため、嘉子は彼らに気づかれることなく、残りの家族に見送られて玄関から出た。
 目立たぬ服装に戻った嘉子を、吉彦が表通りまで送っていって、タクシーを呼んだ。 やがて一人で戻ってきた吉彦は、彼女と細かい打ち合わせをしたと、三人の女性に話した。








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