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羽衣の夢   120 出来ること


 明け方の風が、さわさわと林の梢の葉を揺らした。
 嘉子はまた口をつぐんで、わびしげな表情で、まだまったく人通りのない道をぼんやりと眺めていた。
 彼女からはどうしても話そうとしないことが、ひとつ残っていた。 登志子は勇気を奮い起こし、できるだけ淡々と尋ねた。
「それで、鈴木敏夫さんは……?」
 一瞬、嘉子の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「話せないの」
 そう呟いた後、嘉子は思いがけないほど強い力で、登志子の手を握り返した。
「私のことなら何でも言います。 もう戦争から十五年以上経っているし、華族階級なんかなくなったしね。
 でも、敏夫さんについては話せない。 ただ、これだけは信じて。 あなたに危害を加えようとしたのは、絶対にあの人じゃないわ」
「生きているんですね?」
「……ええ、元気よ」
「その人は、私のことを知っていますか?」
 嘉子は一瞬、ぽかんとした表情になった。 それが何を意味するのかわからない。 どこか場ちがいで、奇妙な表情だった。
「そうね、たぶん……、いえ、知らされているでしょう」
 それから、また登志子の指をしっかり掴んだ。
「檜山は、勝手にあなたのことを調べたのを後悔しているのよ。 学園で評判の美人学生が、あやうく駅から突き落とされるところだったって噂を聞いて、真っ青になって私に謝ったわ。
 そんなことがなければ、私は一生あなたの前に姿を見せないつもりだった。 立派で愛情深いご両親に大切にされて、これ以上ない環境で育っているんだもの。 あなたの将来に傷をつけるような真似は、絶対にしないわ。
 でも、私と檜山のせいで、用心してご一家で姿を消したとわかったから、どうしても会って言わなければと思って。
 もう大丈夫よ。 あなたを調べたり、つけまわしたりする者は、もういない。 事情はどうしても話せないけど、それはあなたとお宅の方々を守るためなの。
 信じてくれる?」
 登志子は、見入られたように生みの母の瞳を凝視した。 そこには強烈な力が宿っていた。 これまで無理に押さえつけられていた願い、好きな人の子供を育て、成長するのを見守るという見果てぬ夢を、一気に噴出させたような強さだった。
 その瞬間加納嘉子は、昨夜祭りの中で出会ったはかない美女とは別人に見えた。 気力と決意がみなぎったその姿は若々しく、これなら深窓の令嬢や淑やかな奥様役だけでなく、女剣士や謎の秘密捜査員だって演技できそうなぐらいだった。
「信じます」
 登志子はその迫力に圧倒された。 わざわざ一人で遠くまで訪ねてきてくれて、飾らない口調で生まれたときの事情を語ってくれたこの人が、私を騙すはずがない。 理性だけでなく本能も、嘉子を信用した。
 嘉子の手が緩み、ふたたび眼が真っ赤になり始めた。 泣かせるのが辛くて、登志子は急いで話題を変えた。
「ここにいるの、どうしてわかっちゃいました?」
「ああ……」
 形のいい嘉子の唇が弧を描き、顔が泣き笑いになった。
「お宅のお父様がね、初めて遠回りしないでここへ来たのよ。 よっぽどご家族に会いたかったんでしょうね」








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