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羽衣の夢   117 早朝に逢う


 登志子の声が出るようになる前に、加納嘉子が低く囁いた。
「怖い思いをさせてごめんなさい」
 ぎょっとなって、登志子はよろめきかけた。 その手首をすばやく掴んで支えると、加納嘉子は早口で言葉を継いだ。
「できたら二人で会いたいの。 明日の朝、ひとりでおうちを出て来られる?」
 登志子は緊張して、激しく眼をしばたたいた。 その短い間にも、掴まれた手から嘉子の体温が伝わり、不思議なおののきが体を走った。
「あの、一人でですか?」
「心配?」
「いいえ」
 ほとんど反射的に、その言葉は登志子の口からすべり出た。 この人は母だ、と、本能が語っていた。 生みの親で、心から私を大事に思ってくれている人だ、と。
「行きます。 何時ですか?」
「明るくなったら待っているわ。 あなたが出てくるまで」
 横を賑やかに家族連れが追い抜いていった。 ふと気を取られた隙に、手に触れていた温かい感触が消え、登志子は人込みの中にぽつりと一人で立っていた。
 踊りの輪から、加寿が急いで引き返してきた。
「登志ちゃん、どうしたの? ぼうっとして。 後ろで踊ってると思ってずっと話しかけてたら、いないんだもの」
 夢から覚めたように、登志子は祖母を見返した。
「あ、ちょっと……知ってる人がいたような気がして」
 とたんに加寿の表情が変わった。
「まあ、登志ちゃんがここにいるの、わかっちゃったかしら」
「ううん。 気のせいだったみたい」
「ほんとに?」
「ええ」
「それならいいけど。 さ、行こ」
 今度は祖母に手を引かれ、登志子はまだいくらか混乱を残しながら、ゆっくり歩き出した。




 仲のいい家族でただ一つ困った点は、私生活がなかなか保てないことだ。
 登志子も祖母の加寿と寝室が同じで、抜け出すのは至難の業だった。 どうしても加納嘉子と会わなければならないが、眠りの浅い祖母が目を覚まして心配するのは避けたい。
 考えたあげく、登志子は夏掛け布団の下に毛布を丸めて入れ、寝ているように見せてから、服を脇にかかえて寝室を忍び出て、洗面所で着替えた。


 勝手口からそっと踏み出し、音を出さないように閉めたとき、裏門の横から、人の顔が覗いた。 時刻は早朝の五時十七分。 日の出から五分ほどしか経っていないが、空はずいぶん明るくなっていた。
 胸が不規則に高鳴るのを感じながら、登志子は早足で裏門に向かった。 今日の加納嘉子は青のワンピースを着ていた。 化粧は薄く、飾りのない服装をしているにもかかわらず、明らかに目立つ。 自分でもわかっているようで、紺色のスカーフを頭に巻いて、少しでも地味に見せようとしていた。
「よく来てくれたわね」
 眼鏡をかけず、素のままの登志子の顔を、嘉子は吸い込まれるように眺め続けた。
「死んだと思い込んでいた。 いえ、思い込まされていた。 あなたをあの喫茶店で見つけたときだって、他人の空似だとばかり……」







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