表紙

羽衣の夢   93 目撃者の話


 表面上は平穏な半月が過ぎた。 あれから登志子の後をつける人間は見当たらないし、滋が張り切って描いた似顔絵に似た人物が尾行してくることもなかった。
 しかし、吉彦も晴子も、そして加寿も、おまけに今では三人の息子たちも用心を続けていた。 もちろん登志子本人も。
 突き落とされかけた翌日、登校した登志子はすぐ、電車の中からパントマイムで注意してくれた後輩に会いに行った。
 登志子が教室の後ろのドアから覗くと、桜河はすぐ気づいて、緊張した表情で小走りにやってきた。
「よかった〜。 怪我してないですよね?」
「無事。 桜河くんのおかげ。 ありがとう」
 そう礼を言いながら、登志子は彼を階段横の人通りが少ないところに連れて行った。
「あの後、次の駅で乗り換えて戻ろうとしたんですよ。 でも山賀が、落ちなかったんならもうホームにはいないだろう、明日詳しい話を聞こうって言って」
「確かにすぐうちへ帰ったからよかったわ。 それで、あのとき何があったか教えてくれる? 後ろからドンと来たんで、全然わからなかったの」
 桜河はせわしなく頷き、記憶の糸をたぐった。
「男がいたんですよ。 薄手のフードつきのウインドブレーカー着て、寒くないのにポケットに手を突っ込んでました。
 そいつが先輩を見て、それから入ってくる上り電車見て、なんか態度が不自然だったんで、目がそっち向いたんですよ。 そしたら、ポケットからいきなり両手出して、グンと横に伸ばしたから」
 様子を聞いて、登志子は改めてぞくっとなった。
「それで右に避けろって、手で合図してくれたのね」
「すぐやってくれて、ホッとしたです。 こっちもカッとして、電車のドアのガラスがんがん叩いちゃった。 そんなことしたって開くわけないのに」
「やった人の顔見えた?」
 桜河は残念そうに首を横に振った。
「フードを深く被ってて。 でもあの服装だと、たぶん若いと思う。 二十代くらい。 背丈は先輩より十センチか十五センチ高かったです。 体つきは普通」
 犯人は若い男で、身長は一七五から一八〇。 平均的な体型。
 そして明らかに、意図を持って登志子を押したのだった。 ホームに入ってくる電車の位置を計算して。
「前にのめったせいで、突き飛ばした男の姿が全然見えなかったの」
 くやしそうに登志子が呟くと、桜河も同情して目をしばたたいた。
「力一杯押しといて、すぐまたポケットに手突っ込んで逃げてったから」
「やっぱり。 もう用心して、電車が入ってくるまでホームの真中にいることにするわ」
 軽く言ったつもりだが、桜河の心配顔は変わらなかった。
「でもやっぱり不安だな。 あいつが阿佐ヶ谷にいるなら、また何かやるかもしれない。 今度は階段で狙うとか」
「うわ、困る。 怪我しないですんだから、傷害罪で訴えるわけにもいかないしね」
「でも警察には言っといたほうがいいと思う。 いや鉄道警察かな? ともかく、注意して巡回してくれるかも」
「そうね。 お父さんに話してみる。 うちの両親も桜河くんに感謝してます。 こんどお宅にお礼に伺いたいって」
「えー? そんな、いいですよ、たまたま目に入っただけだから」
 桜河は気まり悪そうに、頬を桜色に染めた。








表紙 目次前頁次頁
背景:kigen

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送