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羽衣の夢   77 晴子の恐れ


 それは、長年育ててきた者の直感というべきものだった。 加寿とのなごやかな様子から、厳しい話し合いにならないことはうすうすわかっていたものの、それでも晴子は緊張して、洗濯物の籠を茶の間に置いてから、娘を振り返った。
「えぇと、どこで話す? ここだと弘樹たちがいつ入ってくるかわからないし」
「じゃ、私の部屋は?」
「ああ、それがいいわね」
 一階の奥に自室がある加寿に見送られて、母と娘は二階に上がっていった。


 灯りをつけて入った登志子の部屋は、気持ちよく整えられていた。 あまりテレビを見ない一家なので、タレント関連や流行の品はない。 秋に替えたオリーブ色の厚手カーテンと、椅子に載った毛糸のクッション、ペールグリーンの花模様がついたベッドカバーが、上品な女の子らしさを見せていた。
 ベッドを入れていても、畳の部屋だった。 登志子が隅に重ねてあった大きな座布団を持ってきて、二人は床面に向かい合う形で座った。
「お母さん」
 かしこまって呼びかけられて、晴子は反射的にびくっとなった。 次に続く言葉が怖かった。
「実の子として育ててくれて、ありがとう」
 ございます、とつけて言いたかった。 でも他人行儀になりそうで、深く頭を下げた登志子は、普段の言葉遣いのままでいた。
 晴子は何も言わなかった。 沈黙が数秒間続き、心配になった登志子が顔をあげると、きなりに菱模様の入った母の座布団が、点々と濃い色に変わるのが見えた。
 お母さんが泣いている。
 登志子は胸が絞られる気がして、早口に後を続けた。
「お母さんがいなかったら、私きっと死んでたでしょう。 運良く他の人に拾われても、育ててもらえたかどうかわからない。 食べ物のないときだったんだもの」
「やめてよ登志ちゃん、やめて」
 すすり泣きに揺れる母の声が、頼りなく聞こえた。
「感謝なんかしないで。 親が子供を育てるのは当たり前でしょう? 登志子をよその子だなんて思ったことは一度もないのに」
「わかってる。 お祖母ちゃんがさっき言ってた。 産みの親より育ての親だって」
「あなたに話したのは、おかあさん?」
「ちがう。 私から、祥ちゃんに訊いたの」
 祖母に打ち明けた話を繰り返すと、晴子は膝を崩し、ベッドに寄りかかるようにして目を閉じた。
「なんとなく気づいてたのね。 勘がいいものね。 気づかないはずなかったんだわ」
 そこで晴子は、赤くなった目を見開いて登志子を見つめた。 すがりつくような、必死の眼差しだった。
「で、登志子はどう思ってる? もし……もし誰かが親として名乗り出てきたら」
「事情を訊くわ」
 登志子の答えははっきりしていた。
「それで?」
 晴子がおそるおそる尋ねると、登志子は微笑んだ。 口角がすっきり上がって、見とれるほど温かい笑顔だった。
「きっとその人のことも好きになると思う。 でもたぶん、家族にはなれないでしょう。 だって私、ここしか考えられないから。 この先結婚して他所へ行ったとしても、懐かしいのはここだけだから」
 その『ここ』という言葉には、すべてが含まれていた。 父、母、祖母、それに三人の弟達。 登志子にとって家庭とは、この六人にほかならなかった。
 晴子は声が出にくくなって、苦しげに咳払いした。
「もしかすると、お金持ちのお嬢様だったかもしれないのよ。 あの戦時中に、びっくりするほど豪華な赤ちゃん服を着てたんだから」
「いつか見せてくれる?」
 登志子は静かに尋ねた。 晴子はあまり気が進まない様子でうなずいた。
「おかあさんがどこかにしまっていると思うわ。 訊いてみる」
「どんなに綺麗な服着てても、たとえ大富豪の子でも、川に流されたんじゃ意味ないわ」
 きっぱりと登志子は言った。 それを見たら登志子の気が変わるのではないかと、母が恐れているのを感じ取っていた。
「私を産んだ人は、きっと空襲で死んだのね」
「どうかしら」
 今でも晴子はまだ半信半疑だった。 登志子を育て始めた頃は、実の親が迎えに来る夢を見て、毎晩のように飛び起きたものだ。
 最近では悪夢を見る回数が減っているが、それでもたまに冷や汗をかいて目覚めることがある。 そして、もし本当に来たら登志子をどこかへ隠し、知らん顔をしようといつも考えた。
「誰も探さないということは、家族全員が亡くなったのかもしれない。 そうだったら悲しすぎるから、知りたくないわ」
「そうね」
 永久にわからなければいい。
 晴子はどうしても、そう願ってしまうのだった。








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