表紙

羽衣の夢   72 隠さず話す


 衝撃で働きのにぶっていた登志子の頭が、話のその辺りから動くようになった。
 神棚の登志子ちゃん── あの人は姉じゃない。 本物の『登志子』だったんだ。
 では、私は誰? いったいどこから来たの?
「私はどこかから引き取られてきたのね?」
 そう訊く登志子の声は、自分で驚くほど落ち着いていた。
 結二はそわそわして、兄に目をやった。 しかし、祥一郎はまったく動じることなく、すがすがしいぐらいはっきりと言った。
「そうじゃない。 三月十日の大空襲の後、神田川を流れているところを見つかったんだよ」
 そして祥一郎は、登志子が余計な想像をする前に後を続けた。
「上等な着物にくるまって、外国行き用のトランクに入ってたんだ。 登志ちゃんの親御さんはきっと、赤ちゃんだけは助けようと思って頑丈なトランクに入れて、火の届かない川に投げたんだろう」
「それでね」
 肝心なところを兄が話してくれたので、結二は気が楽になったらしく、いきなり話に割り込んできた。
「安西のおばさんは前の登志子ちゃんの葬式に来た友達を集めて、頼んだんだ。
 誰かがトランクに入った赤ちゃんのことを訊きにきたら、その場では教えないで、必ずおばさんのところに知らせてくれって。
 秘密っていっても狭い通りだろ? 知ってる人は初めから知ってるんだけどさ、みんな安西のおばさんが好きだし、なんかロマンチックじゃない? おとぎ話みたいでさ。 それで皆、ずっとその約束を守ってるんだ。
 だから僕達も、登志子ちゃんを守る会っての結成したんだぜ」
「おい」
 ぺらぺらしゃべる弟を、祥一郎は眉をしかめてにらみつけた。
「なに余計なこと言ってるんだよ」
「あれ? 良太が言い出したとき、兄ちゃんもすぐ賛成したじゃないか」
「小学生のころだぞ。 月光仮面やローンレンジャー見てた時代だから、そういう話になっただけだ」
 めずらしく頬骨のあたりを赤くして、祥一郎は早口になった。


 登志子は目をしばたたいた。
 赤子のときの惨事は、まったく記憶にない。 でも友達の話や残った焼け跡を見た記憶から、この世の地獄だったのは実感としてわかっていた。
 自分はどうやら、大切に育てられた赤ん坊だったらしい。 だが一夜にして親を失い、たぶん家も失って、ごみのように川を流れていた。
「それで、誰か私を探しに来た?」
 どうしても訊かなければならない質問だった。
 結二はまた兄を見上げ、祥一郎はためらわずに答えた。
「いや、まだ一人も」
 やっぱり。
 その瞬間登志子が感じたのは悲しみよりも、深見の両親への圧倒的な感謝の気持ちだった。
 戦争で家族を失った子供たちが、どんな苦しみと絶望を背負ったか、登志子は知っていた。 一人ぼっちで雨をしのぐ屋根もなく、親切な駅員のいる駅構内やガード下で眠り、飢えに耐えかねて盗みをすれば浮浪児とさげすまれた。 中には靴磨きや走り使いをして僅かな金を稼ぎ、必死に生き抜く子もいたが、凍死や餓死、病死ではかなく死ぬ者も後を絶たなかったという。
 自分も生活が苦しい中、孤児たちに手を差し伸べて施設を作り、『鐘の鳴る丘』というラジオドラマになった人もいた。
 その一方、望まない妊娠をした女性が、外国の血の混じった子を電車の網棚に置き去りにする、という悲劇もあった。
 国民のほとんどが明日どうするかよりもその日を生き抜くのが大変だった時代、母と祖母、それから父は、どこの誰かわからない赤子を自分の子として育て、心からかわいがってくれ、惜しみなく高価な授業料の学校に通わせ、好きな習い事をさせてくれた。
 仏心、というのは、うちの両親とお祖母ちゃんのことだ。
 登志子の顔が崩れ、涙が頬を濡らすのを見て、結二は焦ってズボンのポケットからくしゃくしゃのハンカチを引き出した。
「ごめんね、登志子ちゃん。 ショックだったよね」
「そのハンカチもショックだよ。 何包んでるんだよ」
 言われて手を見た結二は、ハンカチが真っ青に染まっているのを知ってたじろいだ。
「あ、あれっ? そうだ、さっき万年筆踏んだんで拾って……」
「もう壊れてるよ。 捨ててきな」
 指先もどんどん青くなっていく。 困った結二は度を失って、汚れた指を傍の鉄柱にこすりつけようとした。
「こら止めろ! 俺のハンカチ貸してやっから」
「これ使って」
 さっとチリ紙を差し出した登志子の目にはもう涙はなく、淡い微笑みさえ浮かんでいた。







表紙 目次前頁次頁
背景:kigen

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送