表紙

羽衣の夢   57 電車の中で


 それでも、胸騒ぎの夏は意外に穏やかなまま、過ぎていった。
 中学に入った弘樹は、長ズボンになったとたん、ずいぶん大人ぶるようになったし、次男の滋は兄と違ってコツコツ型のまじめ人間で、夏休みの宿題に家族を巻き込むようなことはなかった。
 そして末っ子の友也は、まだまだ幼児のままで、三人の女性陣にちやほやされて、すくすく育っていた。
 だから登志子は、夏休みを活動的に過ごした。 バスケ部の合宿にも参加したし、家族全員で大きな遊園地に行き、ウォーターシュートでしぶきを浴びてはしゃいだ。
 材木座海岸へ海水浴にも出かけた。 そこは吉彦が独身時代によく泳ぎに行った場所だそうで、地元に気の置けない顔見知りがいて、楽しそうだった。
 海に入るのは愉快だが、水につかりすぎると後が疲れる。 電車での帰り道、友也は母の膝でぐっすり眠っていたし、滋も寝ぼけ眼で舟をこいでいた。 逆に弘樹は興奮さめやらず、車内をそわそわ往復したあげく、端の吊革に飛びついて逆上がりを始め、父に一喝された。
 てんやわんやの中、祖母に席を譲って立っていた登志子は、電車が中野の駅にすべりこんだのに気づいて、ほっと肩の力を抜いた。
 もうじき自宅のある阿佐ヶ谷に着く。 弘樹は元気に見えるが、もしかすると疲れすぎて反動が出ているのかもしれない。 彼が本当は丈夫ではないことを知っているから、登志子は心配だった。
 早く家に帰って、皆でトコロテン式に次々とお風呂に入って、十畳の和室いっぱいにお布団を敷いて蚊帳をかけ、のんびりとくつろいで眠りたかった。
 発車のベルが鳴り、ドアが閉じた。 そのとき、プラットホームの階段を跳ぶように駆け上ってきた高校生ぐらいの男子がいた。
 ほんの数秒差で間に合わなかったので、その子はちょっと悔しそうに電車を眺め、ゆっくり発進していくのを見送った。
 いい顔してるなぁ──登志子は彼の姿に気を取られた。 相当背が高いが、均整が取れているため身軽に見える。 形のいいきりりとした眉が澄んだ力強い眼を引き立て、高級な五月人形のようだった。 凛々しい顔立ち、刀か弓が似合いそう、と思った瞬間、登志子は目を見張った。
 あれ、もしかして、祥ちゃん?
 大急ぎで体を斜めにして、ガラス越しにもっとよく見ようとした登志子を、相手も見つけた。
 彼の口がわずかに開いた。 お互いの記憶がぐんとさかのぼり、一瞬のうちに認め合った。 まるでカメラの焦点がぴたっと定まったかのように。
 意識せずに、登志子は大きな笑顔になった。 そして、込み合った乗客の間から腕を伸ばし、ドアのガラスに右手を当て、指をひらひらさせた。
 電車の速度が上がって、ホームがどんどん遠ざかっていく中、彼も右手を上げるのがわかった。 ほんの一秒か二秒だったけれど、確かにそれは中倉祥一郎だったし、彼も登志子を覚えていた。







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