表紙

羽衣の夢   46 際どい出生


 まだ太陽が空に残っている内に、父の吉彦が帰ってきた。
 ただいま、という声を聞いて、三人の子供たちはワッと玄関に飛び出した。
「お帰りなさい!」
「ね、お父さん、いつ赤ちゃん見に行っていい?」
 早くもそう尋ねたのは、弘樹だった。 滋が生まれたときに、登志子と揃って産院へ出かけたことを思い出したらしい。
 吉彦は靴を脱ぐと、真顔で長男を見つめた。
「そうだな、あと一週間か十日ぐらいしたら、たぶん」
 その口調に、登志子はふと何かを感じた。 喜ばしいだけではない、特別な事情を。
「お父さん」
 娘が不安そうな表情になったのを、吉彦は見逃さなかった。 登志子はおっとりしているが、感受性は人並み以上で、勘が鋭い子なのだ。
「まあまあ、上がってからゆっくり話そう。 お父さん汗びっしょりになっちゃったよ」
「早めにお風呂わかしたから」
 登志子の言葉に、吉彦はびっくりした。
「え? そこまで気付いたのか? きっといいお嫁さんになるぞ、登志子は」


 まだシャワーなんてしゃれた物はホテルぐらいにしかない頃で、夏でもお風呂は大切な憩いだった。
 下の子たちを次々と風呂に入れ、最後に赤い顔をして湯から上がった吉彦は、話を聞きたくてうずうずしている三人に囲まれて、夕食を取った。
「おなかの赤ん坊が騒いでね、早く出たいと言ったものだから、手術することになったんだ」
「しゅずつ?」
 滋はまだ理解できない様子だった。 でも登志子と弘樹は緊張した。
「腹切ったの?」
「弘ちゃん!」
 登志子が狼狽して、珍しくきつい声を出した。 父は苦笑いしながら、弘樹に首を振ってみせた。
「そんな言葉遣いしちゃいかん」
「はい。 友達のお母さんも手術して、そんとき切腹したーって言ってたから」
「むずかしい言葉でいうと、帝王切開だ」
 吉彦の声は、いくらか緊張していた。
「日曜日だから産院にお医者さんが少なくて、大変だった。 本院のほうから呼んできて、執刀してもらったんだ」
 その説明は、主に登志子に向けられたものだった。
 父の願い通り、登志子には理解できた。
「間に合ってよかった」
「そうなんだ。 幸い、慣れた腕のいい外科医でね、もう心配ないそうだ」
 もう、というところに、危機感が隠されていた。


 夕食の支度で入れなかった登志子のために、父が風呂を追い焚きしてくれた。 その後、吉彦は外出着に替え、晴子の身の回り品を持って、もう一度産院に向かった。
「お祖母ちゃんと交代してくる。 今日はみんなも大変だったね。 安心して早く寝なさい」
「赤ちゃんの名前は?」
 急いで出ていく父の背中に、思い出した弘樹の声がかかった。 吉彦はいったん足を止め、振り向いて明るく言った。
「友也にした」
「ゆうや?」
「そうだ。 友達がたくさんできるように」
「どんな字?」
「明日書いて、鴨居に張るよ。 じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 高い声が、ゆったりした玄関に響いた。









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