表紙

羽衣の夢   44 災い転じて


 異変を知って、吉彦はただちに部屋を出た。 後に残された弘樹は、お説教の最中はおとなしくしていただけだったのに、母の具合が悪いと聞かされたとたん、顔を真っ赤にして泣きそうになっていた。
 吉彦の足は速く、登志子が追いついたときには既に、廊下に座り込んだ晴子の横に膝をついて、小声で様子を尋ねていた。
「痛いか? 気持ちが悪い? お義母さん洗面器お願いします」
 加寿より先に、身の軽い登志子が風呂場に飛んでいった。


 戻ってみると、吉彦が電話でハイヤーを呼んでいるところだった。 彼の働きで深見家は中流というより上流に近い収入を得ていたが、当時はまだ憧れがテレビと電気洗濯機、それに電気冷蔵庫の時代で、自家用車を持っている家庭はわずかだった。
 急いで持ってきた洗面器だが、見ると晴子の顔色はだいぶよくなり、吐き気も止まったという。 登志子はホッとした。
 しかし加寿は厳しい顔で自分の部屋に行き、あっという間に着替えて現われた。 晴子に付き添って産院に行くのだ。
 もちろん吉彦も行くところで、汗ばんだシャツをポロシャツに替えただけで、慌しく晴子を抱きかかえると、玄関から出ていった。


 家から大人たちが一人もいなくなった。
 午後の昼寝をしていた滋は、そのまま寝付いていておとなしい。 だが弘樹のほうは落ち着きを失い、二間続きの和室をうろうろ歩き回っては、心細げな呻き声を発した。
 胸の中では弟同様に不安でいたたまれない登志子だった。 でも親がいない家では、年長の自分がしっかりしなければならない。
「弘ちゃん、お母さん早く直るといいねえ」
「うん」
 いつもと違い、消え入るような声だ。 そしていきなり立ち止まると、登志子の前に来て、ペタンと座った。
「僕のせいかなぁ。 朝顔の世話、ちゃんとやらなかったから」
 そうじゃないよ、と言いかけて、登志子は気付いた。 気が咎めて真面目になっている今なら、勉強に集中できるかもしれない。
「弘ちゃんのせいじゃない。 でもお母さんは、留守の間に弘ちゃんが宿題をがんばったら、きっと喜んで、病気も早く直ると思う」
「うん」
 少し元気な声が、弘樹の口から出た。 少しでも母の役に立ちたいという、子供らしい願いに突き動かされて、弘樹はバタバタと絵日記帳を取りに行き、卓袱台〔ちゃぶだい〕の上に広げて、一心に書き込みはじめた。


 やがて滋が起きてきたので、登志子は冷蔵庫からプリンを出して、おやつの時間にした。
 姉が普段のように落ち着いて見えるため、弘樹もやがて平常心を取り戻した。 感心に、それまで溜めに溜めていた日記をすべて書き込んでから、そわそわしはじめたので、登志子がやんわり言ってやった。
「すごくがんばったね。 全部終わったから幸雄くんのところへ遊びに行ったら?」
 たちまち弘樹の眼が輝いた。
「行っていいの?」
「いいわよ。 私がお留守番していて、お母さんが帰ってきたらすぐ呼びに行くから」
「待ってるからね、きっと来てね」
 語尾が消えないうちに、弘樹はゴム靴を突っかけて、日に焼けた白っぽい道を遠ざかっていった。


 滋と二人扇風機にあたりながら、取り込んだ洗濯物を畳んでいると、電話が鳴った。
 登志子の心臓が、ドクッと跳ねた。
 もし、もしお母さんに何かあったら……。
 立ち上がった足がもつれそうになったが、なんとか電話にたどりついて受話器を取った。
「登志子?」
 父の弾んだ声が聞こえた。 登志子は無意識に胸を押さえながら応じた。
「はい」
「赤ちゃん、生まれたよ! ちょっと小さいけど、かわいい男の子」








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