表紙

羽衣の夢   40 少年野球団



 その週の土曜日、加寿が山岸の悦子おばさんと電話で話した後、登志子を下町へ連れて行ってくれた。
 加寿たちの伊豆旅行は来週に迫っている。 一緒に行く予定の五人が山岸家の茶の間に集まって、談笑し始めた。 どうやら手軽な団体旅行に申し込んだらしく、集合場所の東京駅に何時までに行くかなどを話し合っている。 祖母が楽しんでいる横から、登志子はそっと席を立ち、柔らかい秋色に染まった青空の元、路地に出た。
 もう道を知っているため、寺にはすぐ行くことができた。 まっすぐな長い石段を上っていくと、次第に甲高い男の子の歓声が大きく聞こえてくるようになった。 あれは下町少年野球団だ! 登志子の足がどんどん速まった。


 銀杏〔いちょう〕の大木を回りこむと、土ぼこりがもうもうと立ちこめていた。 やはり彼らがいる。 ちょうど誰かがホームベースにすべりこんだところで、カーキ色のズボンを穿いた審判が、平らに手を伸ばしてセーフの身振りをしていた。
 次の打席に入ったのは、黒バットを持った祥一郎だった。 登志子は傍の杉の木に手をかけて、相手チームの投手がブンブンと腕を振るのを見守った。
 体は小さいが、皆本格派を目指していた。 そろそろ白黒テレビが普及し出した頃で、早めに買った家はご近所を呼び、自慢かたがた一緒に小さな映画館の雰囲気で、ぼやけた丸い画面に目をこらす時代だった。
 プロレス中継と共に、野球中継も大人気だ。 野球場に足を運ばなくてもプレーを見ることができるようになって、カーブ、フォーク。ドロップなど、子供たちの憧れの球種が増えた。
 強豪の祥一郎を迎え、投手は張り切って、まず変化球を投げてきた。
 第一球ボール。
 とてもゆるいカーブだったため、祥一郎は次の球を予測できたらしい。 二度ほど肩ならしにバットを小さく振った後、投手の良太が渾身の力をこめて投げた速球を、ぴたりと捉えた。
 守備がみんな、ぽかんと口を開けて空を見上げる中、白球、というよりネズミ色のボールは、松の梢より高く上がり、お寺の境内を遥かに越えて、あっという間に見えなくなってしまった。


「ホームラン!」
 審判が興奮のあまり、息切れした声で叫んだ。 攻撃陣は大拍手で、一塁にいた選手も大きく手を叩きながら、ゆっくり塁間を駆け抜けてホームに戻ってきた。
 祥一郎は派手な動作はせず、黙々と帰ってきた。 それでもホームの上でちょっとはねてみせ、嬉しさを表した。
 登志子も杉の横から拍手を送った。 野球はよく知らないが、審判の前まで戻ってくれば点になるのはわかっていた。
 すると、先に帰ってきたヒットの選手、水上孝治が、登志子に気付いて大きく万歳してみせた。
「見た? 今のサヨナラホームランだったんだぜ!」
「そう? すごいわね。 孝ちゃんたち勝ったの?」
「そう、勝ったの〜」
 わざとなよなよっとしてみせた孝治を、後ろから良太が帽子ではたいた。 口を尖らせているが、本気で悔しがっているというより、あまりの大ホームランに意気をそがれたという感じだった。
「すげーよな、ボールどこまで行っただろう」
「わかんない。 大通りに出ちゃったんじゃないの?」
「また球がなくなったぜぃ」
 その言葉で、登志子は下げてきた紙袋を思い出し、祝福の輪から抜け出した祥一郎に声をかけた。
「祥ちゃん」
 きりっとした眼が、登志子を捉えた。
「ああ、おす」
「おす」
 反射的に答えてしまって、登志子は笑いながら言い直した。
「こんにちは。 お世話になりました。 お父さんがね、皆さんにこれ差し入れって」
 登志子がそっと祥一郎の傍に置いた紙バッグを、高雄が覗いて大声を上げた。
「すっげぇ! まっさらのボールが一杯だー」









表紙 目次前頁次頁
背景:kigen

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送