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羽衣の夢   23 良い引越し

 にぎやかな食事が終わると、吉彦はさっそく膝を進めて、会社の提案を語った。
「この家はのどかで環境がいいが、今になると都心に通勤するのは不便になってしまった。 それでね、田辺専務が言うには、阿佐ヶ谷〔あさがや〕の社宅に越したほうがいいという話なんだ。 あそこはもう地下鉄が通じてるし、いざとなったら自転車でも通勤できるから」
「そうね、きっとそのほうが便利ね」
 晴子はすぐ心を決めた。 なにしろ戦時中に引越しは何度もやっている。 荷物の少ないこの時期に移転しておいたほうが楽だと思った。
 一方、加寿のほうは頬に手を当てて考えていた。 そして、遠慮がちに切り出した。
「じゃ、私はいったん自分の家に帰ろうかしら」
 晴子だけでなく、吉彦も驚いて目を見張った。
「いや、まだ早いですよ。 留守宅がご心配なら、僕が見てきましょう」
「いえ、うちのご近所さんはみんないい人たちだし、家はがらがらで盗るものなんかないから、その心配はしてないんだけどね」
 そこで吉彦は、はたと気付いた。
「そうだ、こっち以上に下町は家不足ですよね。 誰かが空家に住み着いたら、もう出ていかなくなってしまう。
 やっぱり僕が明日見てきますよ。 会社が書き入れ時で、年末だからって当分休めないようですし。 万一誰か入り込んでいたら、家主の伯父さんに相談して何とかしてもらいましょう」
 不意に加寿が固く目をつぶり、両手を合わせて吉彦を拝んだ。 提案がうまくいったので胸を撫でおろして立ち上がろうとしていた吉彦は、ぎょっとなって義母の手を下ろさせた。
「よしてくださいお義母さん。 仏にならないですんでよかったと思ってるんですから」
 晴子が思わずクスッと笑った。 後の二人も笑顔になった。




 翌日からせっせと荷物をまとめて、土曜日に近所へお別れのあいさつ回りをした後、一家は日曜日に阿佐ヶ谷の社宅へ引っ越した。
 会社が小さなトラックを手配してくれたため、荷物と共に乗っていけて、戦争中の心細い引越しとは段違いに楽だった。
 しかも、今度の社宅は大きかった。 閑静な住宅街の一等地にあり、七十坪ほどの庭に桜や松が植わっていて、手入れすれば立派になりそうだった。 ただ戦時中のなごりで庭の奥に大きな防空壕が掘ってあって、せっかくの雰囲気が崩れていた。
 加寿は車で着いたとたんに水を汲み、雑巾をしぼってせっせと新居を拭きはじめた。 下町の家が親戚の管理でしっかり無事なのを吉彦が確かめてきたため、安心して一緒に引っ越してきたのだ。
「いいところねえ、水道もガスもちゃんと通ってて」
「それに大きいでしょう? 五部屋もあるんですよ。 下に三つと二階に二つ。 三畳の納戸もあるから、これから物が増えても大丈夫だと思いますよ」
 吉彦の声も弾んでいた。 ここはもともと幹部社員用の家だったが、引退して故郷に去ったという話だった。





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