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羽衣の夢   22 まだ冬でも

 その日、吉彦は久しぶりに背広に手を通して、会社へ出かけた。 出勤用の革靴に履き替えて立ち上がったとき、彼は玄関で見送る晴子に微笑みかけ、その腕に抱かれた登志子の頭をくりっと撫でた。


 夫の帰りはずいぶん遅くなった。 夜の九時半になっても戻ってこないので、加寿が言い出した。
「きっとささやかでも歓迎会してもらってるのよ。 五体満足で生きて帰ってきたんだものね」
「そうかもしれない。 交通事情が悪くて時間がかかってるのかもしれないし」
 振り子の柱時計を見上げて、晴子は心配を隠そうとした。
「悪いけど、先に食べましょうか」
 二人が食事を温め直し、一汁一菜の食卓に向かおうとしたそのとき、玄関がガラリと開いて、吉彦の元気な声がした。
「ただいま!」
 女二人の顔がパッと明るくなった。 すぐに晴子が立ち上がって出迎えに行くと、吉彦は上がりかまちに座り込んで、背負った大荷物を降ろしているところだった。
「おかえりなさい! あら大変なお荷物ね」
「すごいよ都心のほうは。 闇市だらけだが、もう車を乗り回している連中もいる」
「ぶっそうなんでしょう? 武装強盗団みたいなのが一部で暴れてるって聞いたわ」
「幸いそういうのには出会わなかった。 それより会社だ。 あっちはまるまる焼け残っていてね、おまけに景気がよくて、印刷工の雇い増しをしていたよ。 戦時中はゆっくり本を読めなかっただろう? だから人々が活字に飢えていて、ザラ紙に印刷した物なんかでも飛ぶように売れるんだそうだ」
 そう熱っぽく語る吉彦の顔は、希望に光っていた。
「直属の上役だった田辺〔たなべ〕さんが出世していて、僕が出社したら手がちぎれそうになるほど握手して喜んでくれた。 同僚はまだ数人しか戻っていなくて、仕事のわかる社員が少ないんで、どんどん来る依頼を引き受けきれなくて大変だったんだって。
 それで、お母さんと君に話があるんだが」
「じゃ、夕飯を食べてからゆっくり」
「そうだね。 あ、お義母さん、ただいま帰りました」
 ふすまを開けて顔を出した加寿は、婿に笑顔を向けてから、上がりかまちの半分を占領している巨大な風呂敷包みに目を見張った。
「おかえりなさい。 これを吉彦さん一人で?」
「ええ、持ち帰りました。 田辺さんが支度金を出してくれたので、あれもこれも欲しくなって、持てる限度まで」
「丸の内のほうは賑やかでしょうね」
 加寿は小さな吐息をついた。
「疎開〔そかい〕した人たちもどんどん戻ってきているでしょう。 うちは地方につてがなくて、疎開先も見つけることができず、吉彦さんに心配かけました。 ほんとに申し訳ないことを」
 疎開とは、空襲の激しい都会を逃れて攻撃の少ない地方に引っ越すことをいう。 日本だけでなくイギリスや他のヨーロッパ諸国でも、子供を中心に広く行なわれた。
 吉彦は疲れた足に鞭打って元気に立ち、晴子と力を合わせて大荷物を茶の間に引き入れながら、明るく答えた。
「それを言うなら僕も同罪ですよ。 親と喧嘩して身ひとつで飛び出したから、お二人を比較的安全な場所にかくまうことができなかった。 お詫びします」
 その夜は深見家にとって、クリスマスと正月が一緒に来たようなものになった。 緑色の大風呂敷から次々と出てくる缶詰や揚げパン、小麦粉などの食料品に混じって、若草色のウールのワンピースが現れた。 一足早い春の色だった。
「あっ……」
 晴子が絶句していると、吉彦がちょっと面映い笑顔になって、小声で言った。
「裏小路で上品な奥さんが安く売ってたんだ。 晴さんには大きめだけど、君は針仕事が上手だから直せるだろう? きっと似合うと思ったんだ」
 晴子は胸が一杯になり、柔らかい生地をそっと撫でた。 その横で吉彦が、母に何か渡していた。
「これと一緒に売っていたショールです。 きっといいところの奥様だったんですね、売り物がみんな趣味がよくて」
「まあ、私にまで。 すいませんねえ」
 嬉しそうに受け取った加寿が、ふんわり編んだ小豆色のショールを広げて声を上げた。
「おや、ブローチがついたままだわ。 取るのを忘れたのね」
 若夫婦が覗き込むと、留め金代わりに使ったと思われるカメオのブローチが、髪の長い乙女の横顔を光らせていた。






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