表紙

羽衣の夢   20 勘のいい夫

 みんなが風呂に入った後、加寿は気を利かせて、茶の間の奥にある小部屋へ自分用の布団を持っていった。
 東側の寝室は、再び夫婦の部屋に戻った。 熱く抱き合っていると、手が吉彦の体から幾つも傷跡を探り出してくる。 そのたびに晴子は自分が痛むような気持ちになった。
 情熱のほむらが静まっても、吉彦の腕は晴子を抱えたままだった。 晴子は目を閉じていた。 このまま二人して眠ってしまうのかな、と考えていたそのとき、耳元で静かな囁きが聞こえた。
「なあ、登志子にどんな問題があるんだ?」


 晴子の全身が石のように強ばった。
 どうにも横たわっていられなくなって起き上がると、敷布団の上に正座した。 そして口をきこうとした瞬間、涙がどっと溢れ出てきて、声が裏返った。
「ごめんなさい! ずっと言おうと思ってたのだけれど、どうしても言えなくて」
 吉彦も半身を起こし、ゆっくりと言った。
「何か話したいのはすぐわかったよ。 晴さんはいつもまっすぐな目をしているのに、あの子のことになると視線が泳ぐ。 帰ってきてから、それだけが気になってたんだ」
 膝の上で両手を握り合わせながら、晴子は必死でむせび泣きを止めようとした。
「あの……登志子は二月の十五日に生まれたの。 八百六十匁〔もんめ〕の立派な子で、顔もかわいくて」
 あなたにとてもよく似ていたの、という言葉は、どうしても声にならなかった。
「よくお乳を飲んで、元気だった。 それなのに十九日の明け方、急に体温が下がってきて、すぐお医者さんに来ていただいたんだけれど、助からなかったの……」
 黙って聞いていた吉彦の息が乱れた。
 怒りを覚悟して、晴子はうなだれた。 下げた視線の端に、彼が拳を握りしめるのが映ったが、それは妻に向けたものではなかった。
 吉彦は固く握った手を伸ばし、やり場のない悲しみをつぶすかのように、再び拳を作った。
 それから、思いがけないことを語った。
「ぽっくり病か……。 身近で見たよ。 五体満足で、どこも何ともなくて無事に生還してきた若い伍長が、夜寝て、朝になったら死んでいたんだ」
 愕然として、晴子は顔をもたげた。
「原因不明だ。 前日の夜までイモの雑炊〔ぞうすい〕をうまいうまいと言って平らげていた奴が、一晩であっけなく死んだ。 すぐ傍で寝ていた仲間が気付かなかったんだから、静かだったんだろう」
 晴子はますます泣けて、寝巻きの袖で顔を覆った。 吉彦は知らせの衝撃に懸命に耐えている。 妻の心情を気遣ってさえいるのだ。
「本当にごめんなさい。 守りきれなくて」
 答えの代わりに、吉彦は晴子の肩を抱き寄せた。 二人はしばらく黙ったまま、悲嘆に震える身を寄せ合っていた。


 そのうち、夜の冷えがしみてきて、震えが本格的になった。 夫婦はまた布団の中に身を沈めたが、吉彦は晴子の手を握って離さなかった。
「誰のせいでもない。 時代のせいだ」
 それから落着きなく身動きした。
「でもそれじゃ、あの赤ん坊は?」
「あの子は……」
 晴子は包み隠さず、すべてを彼に話した。






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