表紙

羽衣の夢   17 寂しい師走

 ほっとして母と二人で喜んだ後、晴子は急に元気を無くした。
 隣人が幸せになった分、まだ夫を待ちつづけている自分の辛さが倍になって戻ってきた。 松田の次男の栄二は、軍隊に入ったときの体重の半分ぐらいになって帰還したという。 戦場で生き延びても、引き揚げてくる途中で何が起こるかわからない。 いろいろ考えると食欲が落ち、眠りも浅くなった。


 やがて師走が来た。 正月の準備といっても、金、材料、何もかも足りない。 九月に書類上では条約が結ばれて正式に終戦となったが、まだ日本はがんじがらめの占領状態にあった。
 仕事は少なく、あっても苦労して帰還した男性が優先になった。 晴子は役場での経験を生かして、近所の店の決算を手伝ったが、収入はスズメの涙だった。
 それでも働いていると気がまぎれた。 給料をもらった日はクリスマスだったが、敵の祭りなんか祝う気になれず、わずかな飾り付けをした町を急ぎ足で歩いて、少しだけ買い物をした。
 登志子は母が見ていてくれる。 早く帰っておっぱいをやり、三日ぶりにお風呂を沸かそう。
 井戸水をくんで薪をくべて、半時間かけて準備する風呂は、けっこう大変な作業だった。


 帰り道の途中で、木枯らしが吹きはじめた。 マフラーで口元まで覆い、体を丸めて小さな前庭に入ると、晴子は元気をつけて明るく呼びかけながら、玄関をくぐった。
「ただいま」
 すぐに母が登志子をねんねこでおぶって、姿を見せた。
「おかえり。 急に風が強くなったね。 寒かったでしょう」
「ここも冷えるわ。 お茶の間に戻ってちょうだい。 風邪引いたら大変」
「暖房ったって火鉢しかないけどね。 この子がいるから背中があったかくていいわ」
「登志子もお母さんがいてくれて、幸せだ」
 晴子の声を聞き分けたのだろう。 登志子が鼻声でぐずり出した。 おなかがすいているのだ。
 晴子は急いでコートと手袋を脱いで、赤ん坊を受け取った。 すると登志子はますます落着かなくなって、顔を赤くして身をよじった。
 すぐ晴子が原因を察した。
「手が冷たかったのね。 ごめんね、よしよし」
 少しでも暖かい茶の間に入ってふすまを閉めると、晴子は座布団に座って乳をふくませた。 その肩に、加寿が綿入れを被せた。
「電気ストーブつけようか」
 晴子は憂い顔で、コードをつなげている電球の横のソケットを見上げた。
「電力の使いすぎでヒューズ飛ばない?」
「これは戦争前からあるちゃんとしたものだから、大丈夫でしょう。 富久さんの家でヤミで買った電気湯沸し器使ったら、つけたとたんに火が出たんだって」
「うわー危ない!」
 苦笑しながら二人で顔を見合わせたとき、玄関の戸を叩く音が聞こえた。
「あ、きっと加藤さんだ。 娘さんがね、あんたに和裁を習いたいんだって」
「へえ、今どき」
 晴子はちょっと皮肉な口調になったが、得意なことなので心が動いた。
「加藤さんって大きなお茶屋さんでしょう? 授業料ちゃんとくれるかな」
「それはくれるでしょう」
 母はいそいそと立ち上がって玄関に急いだ。


 すぐに挨拶が取り交わされると思った。 だが、引き戸の開く音がした後、何の声もしない。 沈黙があまりに長引くので、晴子は心配になってふすま越しに声をかけた。
「お母さん、どなた?」
 ハーッという喘ぎが聞こえた。 それから、夢にも忘れたことのない声が、ゆらぎながら響いてきた。
「僕だよ、晴さん。 帰ってきたよ……!」





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