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羽衣の夢   16 叶った想い

 そのとき、晴子の口が意思にかかわらず勝手に動いた。
「そう、連れていってあげて」
 前の二人が、同時に振り向いた。 どちらも小さく口を開けている。 その驚きにかまわず、晴子は更に言葉を継いだ。
「うちの人はまだ帰ってこないの。 あなたが生きてここにいるのがすごくうらやましい。 生きてるうちにしかできないことがあるじゃない」
 二人は晴子を見つめていた。 やがて睦夫が激しく息を吸い込み、久美にぶつけるように語りかけた。
「ひとつだけ当てがあるんだ。 そこへ行ってみて、うまくいったら迎えに来る」
 久美は口を手で塞いだ。 喜びと不安が半々に押し寄せている感じだった。
「だめでも戻ってきて。 荷物をまとめたら、もう家にはいられない」
「うちに来たら?」
 晴子が勧めた。 こうなったら乗りかかった舟だ。 それを聞いて、久美の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう……」
「恩に着ます」
 睦夫の力強い声が響いた。 そのとき、晴子は確信した。 うまくいってもいかなくても、この人は戻ってくると。


 その夜、暗くなってから、久美がひっそりと訪ねてきた。 母に許しを貰った晴子が表戸を開けると、風呂敷包み一つだけ持った久美が緊張しきった表情で立っていた。
 睦夫がどこまで出かけたかはよくわからない。 交通機関はまだボロボロで、電車はあちこちで不通。 走っている汽車はどれも超満員どころか、屋根まで人が鈴なりになっていた。
 だからどんなに急いでも、往復に数日はかかりそうだ。 その間の迷惑を考えたのだろう。 久美はできるかぎりの礼を持ってやってきていた。 玄米の小さな袋ひとつと、本当の貴重品、代用甘味料ではなく本物の砂糖を使った餡〔あん〕をアルミの弁当箱一杯。


 睦夫の後を追って久美が家出したらしいと近所で噂になり出したのは、翌日の夕方ぐらいからだった。
 まさか道で挨拶する程度の知り合いの家に隠れているとは、みんな夢にも思わない。 晴子の母の加寿も、買い物に出たとたん口さがない隣人に話を聞かされ、何くわぬ顔で驚いてみせた。
 もう皆は、駆け落ち者たちがとっくにこの地を離れていると思っていた。 だがその次の日の明け方、晴子たちの家の裏口を、そっと小さく叩く音がした。
 目をこすりながら布団から起き上がろうとする晴子を、横で寝ていた久美の手が押しとどめた。 空襲におびやかされていた戦中のように、彼女は服を着たまま寝ていて、すぐ枕もとの包みを取ると、手探りで裏口に急いだ。
 晴子が耳をすましていると、戸がかすかにきしりながら開く音が聞こえ、囁き声が伝わってきた。
「睦夫さん……!」
「やったよ! おれの隊に親切な上官がいたんだ。 その人に会って頼みこんだら、運転手に雇ってくれるって」
「ああ! よかった……」
 衣擦れの音がした。 二人が抱き合っている姿を想像して、晴子は自分まで嬉しくなった。
 間もなく、すり足で久美が戻ってきた。 母も目を覚ましたので電灯をつけて迎えると、ふすまが開き、二人が敷居の前にきちんと座っているのが見えた。 睦夫のほうは脚が完全に曲がらないため、片方が横に流れていたが。
「ありがとうございます。 久美がお世話になりました」
 もう妻と同じような呼び方をして、睦夫はにっこり笑った。 そして、加寿と晴子が固辞するのもかまわず、懐から封筒を出して前に置いた。
「結婚準備にと前払いを貰いましたんで、わずかですが。 ご親切、一生感謝します」


 すぐに二人は出ていった。 人目につかないようにするためだ。 裏口を細く開けて見送っていると、一度振り返って頭を下げた二人は、その後しっかり手を握り合って、まだ薄暗い道へと消えていった。






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