表紙

羽衣の夢   15 追われる者

 帰り道をたどる晴子に、睦夫もすぐ気付いた。 二人は目を見交わし、同時に小さく頭を下げた。
 睦夫の目には、暗い火が宿っていた。 口元が小さく引きつって震えている。 誰かと激しい諍〔いさか〕いをして、別れた直後のように見えた。
 どちらも無言のまま、すれ違って十歩ほど遠ざかったとき、背後にパタパタと足音が聞こえた。
 それから、物のぶつかる音がした。 晴子は反射的に振り返った。
 睦夫はもう一人ではなかった。 道の真中に立ち止まった背に、久美がしがみついていた。
 石像のように動かないまま、睦夫がつぶれた声で囁いた。
「離してくれよ」
「いや」
 細い声が返ってきた。 そして久美は一段と強い力で、しゃにむに睦夫の胸に腕を回して抱き止めた。
「離せって」
「いや!」
 もう涙交じりだった。 久美は言葉だけでは足りず、全身を横に振って彼に逆らった。
「あんたが生きて帰ってきたとき、嬉しかった。 あんなに嬉しかったのは生まれて初めてだった」
「義姉さん……」
「ねえさんじゃない! もう違う!」
 とうとう久美は泣き崩れ、膝を折って道に座りこんだ。
「またあんたのねえさんになるなんて、金輪際〔こんりんざい〕嫌だ」
 わずかな間を置いて、睦夫は風呂敷包みを降ろすと、久美を引き起こした。 だが久美は足に力が入らず、ぐんにゃりとまた倒れそうになって、睦夫に抱きとめられた。


 去らなければならないと思いながらも、晴子は足に錘〔おもり〕がついたように動けなかった。 目の前の二人は、そんな彼女のことを忘れ果てていて、まるで気付かないでいた。
 睦夫の節くれだった手が、優しく久美の背中を撫でた。
「嫌だと言ったって、帰る実家もないじゃないか。 きっと大事にしてくれるよ。 栄二もあんたに惚れてるから」
 泣き濡れた久美の顔が、さっと上がった。
「栄二さん、も? じゃ、あんたも私を想ってくれてるの?」
 とたんに睦夫の息が乱れ、支えていた手が離れた。
「もう行くよ」
「だめ」
 激しく久美が彼の前に割り込んだ。
「ねえ、答えて。 あんたも少しは私のことを……」
 皆まで言わせず、睦夫は荒い息でつぶやいた。
「わかってるだろう? さあもう行かなきゃ。 この足で満員電車に乗るのは一苦労なんだ」
 久美は短くあえいだ。 それから不意に、笛のような声を出した。
「私も行く!」
 たちまち睦夫の目が裂けるほど見開かれた。
「駄目だ〜! おれはこんな体で」
「ちゃんと働いてるじゃないの! 人一倍がんばってる! 私も働くから。 あんたと一緒なら怖いものなんか何もない」
「でも……」
「文無しの女なんか、いや?」
「誰がそんなこと言った!」
「じゃ、連れてって」
 久美は必死だった。 ひたすら懇願するその横顔を、晴子は怖いほど美しいと思った。





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