表紙

羽衣の夢   13 戻る日まで

 最初の試練を二人で協力して乗り越えたことで、夫婦の絆は強くなった。
 吉彦が結婚のため、石神井の静かな町外れに借りた平屋に住み始めて一年半、小さないさかいはあったものの、夫妻は驚くほど幸せに暮らした。 奈落の縁でたわむれる二羽の蝶のように危うい生活だとわかっていただけに、よけい毎日が貴重だった。


 理科系の大学生と企業の研究員は、特に大事な人材ということで、しばらく徴兵を免れていた。
 だが戦線は広がる一方で、やがて猶予はなくなった。 ついに吉彦の元にも、薄いさくら色をした召集令状が届き、町内会が壮行会を開いて出征を祝った。
 吉彦が中尉として出発する前夜の時点で、まだ晴子の妊娠はわかっていなかった。 一人で新居に残される妻を気遣い、吉彦は実家にいったん戻って母親と共に暮らすよう勧めた。
「社宅の貸家だからね、留守を守る必要はないよ。 向こうで給与や配給を受け取れるよう手続きを済ませたから、お母さんと協力しあって元気でがんばってくれ」
「あなたもお元気で。 武運がありますようにと、毎日祈るわ。 きっと通じる。 勝って戻ってこられますようにって」
 初年度には連戦連勝状態だった軍は、その頃敵の物量作戦に押されはじめていた。 大本営発表では負け戦を報道しないので、一般の国民は事情をよく知らないが、軍需産業に友人のいる吉彦は、戦況が厳しくなっているのをうすうす感じ取っていた。
 季節は夏の初めだった。 布団の上に身を起こした吉彦は、晴子の顔を両手で包み、万感の思いをこめて語りかけた。
「晴さんと一緒になれて、僕は幸せ者だ。 どこへ送られても手紙を書くよ。 できるだけ頻繁〔ひんぱん〕に」
 晴子は夫を見上げたまま、震える息を吸い込んだ。
「私も書きます。 慰問袋を一杯送るわ。 その中に隠れて、私もついていきたい」
「とんでもない」
 吉彦は激しく首を振った。
「戦えるのは、守るものがあるからだ。 親が遠くなって、僕には晴さんしかいない。 こっちも大変だろうが、強く生きてくれ。 わかったかい?」
「……はい、あなた」
 あなた、と愛情こめて呼びかけられるのは、この人だけだ。 晴子は心から思った。 万が一、この人が戦死したら、私は立ち直れないかもしれないと。




 戦線はどこまでもゴムひものように伸び、戦時郵便はなかなか届かなかった。
 それでも晴子は毎日少しずつ書き続け、毎週のように投函した。 夫の手紙は何週間も、ときには何ヶ月も後に来た。 まとめて幾つも来ることもあった。 でもこれまで、待てば必ず返事は来た。
 だから夏が過ぎ、秋の気配がただようころになっても、晴子は確信して待ちつづけた。 あちこちの港に入ってくる引き上げ船のどれかに、いつか吉彦が乗って戻ってくる日を。





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