表紙

羽衣の夢   11 求められて

 安西というのは、晴子の姓だった。 驚いたのと嬉しいのとで、色白の晴子はポッと顔を赤らめた。
「私の家ですか……?」
 吉彦は少し声を落とした。
「迷惑でした?」
「いえ、そんなことは」
 晴子は急いで答えた。 早すぎたぐらいだった。


 家が目当てというより、晴子にまた逢いたくて彼が来たのは、お互いにわかっていた。
 ふたりは川沿いを寄り添って歩き、ぽつぽつと語りあった。
「うちはここから少し遠くて、近所じゃないんです。 だから皆さん、安西の名前を知らなかったんでしょう」
「そうか、それで訊いてもわからなかったんですね」
「ええ、通り道だってだけですから」
 その説明から始まって、二人はとりとめのない話を始めた。 彼はハーモニカが好きで、晴子は三味線が少し弾けた。 また、二人とも時代劇では片岡千恵蔵が好きだった。


 そこまではわくわくする午後だった。 だが、吉彦が名の知られた帝国大学を卒業して、出世街道を歩いているらしいことを知ると、晴子は気後れを感じ、その気持ちを正直に言った。
「私は普通の女学校を出てすぐ和裁を始めました。 知り合いに大学出は一人もいません。 こうやってお話するのは楽しいけれど、相手が私じゃ深見さんきっと物足りないと思います」
 吉彦はぎくっとなって顔を向けた。
 そして、彼のほうも稀に見る正直さで、本音を口にした。
「気にさわりました? 自慢しているように聞こえましたか? そんなつもりじゃなかったんです。 将来性があるとわかってほしかっただけで」
 将来性……。 彼がそんなことを言い出した理由を悟ると、晴子は足がわずかに震え出した。 こんなにすっきりした爽やかな人が、自分を花嫁候補と思い定めるなんて、考えられないと思った。


 でも吉彦は本気だった。 それからというもの、土曜の午後や日曜日、時間のあるとき待ち合わせて、たとえ半時間でもお堀端や銀座を歩いた。 晴子にとって初めて、喫茶店に入って苦いコーヒーを飲んだのも、いい思い出だった。


 平時なら、もっとゆっくりじっくり付き合っただろうが、二人には時間の壁が立ちふさがっていた。
 それでも当時のわりにはお互いをよく知り合ったほうだった。 お見合い一回で決めた人も少なくなかったのだから。
 こうして、秋の吉日を選んで、めでたく結納が交わされた。 吉彦は一応故郷に手紙を出して、結婚の許可を願った。 父親は最初、小田原に戻って式を挙げるよう求めたが、すぐ電報で取り消してきた。 たぶん義母が準備の面倒を嫌ったのだろう。
 だから会社の上役に仲人を頼んで、すべてこっちで取り仕切った。 吉彦の実家からは両親の代理として叔父夫妻が来た。 彼らは薄情な父親とちがって人情のある人たちで、晴子はずいぶん優しくしてもらった。





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