表紙

羽衣の夢   10 馴れ初めは

 出征前、吉彦は中堅印刷会社の社員だった。
 故郷は小田原で、由緒ある宿屋の長男だが、母は彼の妹を産むときに難産で亡くなり、赤ん坊も三歳前に肺炎で命を落とした。
 その後、父は再婚。 後添えはすぐ男の子を二人産んで、吉彦を邪魔にし始めた。 だから吉彦は大学進学で上京して以来、ほとんど実家に戻っていない。


 晴子が吉彦に初めて逢ったのは、太平洋戦争が始まって半年ほど経った日、吉彦が仕事で下町に来て、道に迷ったときだった。
 当時、晴子は女学校を終えて和裁の修業に入って三年目。 伝統に従って自分で着物を縫う女性はまだ多かったが、都会では洋装が増え、着物は晴れ着と浴衣〔ゆかた〕だけという若者もいて、仕立て屋は繁盛していた。
 縫いあがった着物を風呂敷に包んで届けに行き、市電で帰ってきたところ、人がようやくすれ違える幅の細い裏小路で、きちんとした身なりの青年とぶつかりそうになった。
 目が合った瞬間のことを、晴子は今でも昨日のことのように思い出せる。 澄んだ若い瞳に映った綿毛のような白い雲、目尻に寄った小さな笑い皺、すっきりした形のいい口元を。
 後で聞いたが、そのとき吉彦も晴子の瓜実〔うりざね〕顔から目が離せなくなったという。 特に美男美女というわけではないが、きっとお互い好みにぴったりだったのだろう。
 吉彦は、この機会を逃さず掴んだ。 まず、道に迷ったと正直に言い、市電の駅まで案内してほしいと頼んだ。
 そして、短い道中に自分の仕事を話して怪しい者ではないと安心させ、晴子の名前を教えてもらうと、別れ際に名刺まで渡した。


「ずいぶん早手回しだったわね」
 結納を交わした後で晴子が言うと、吉彦は顔を赤らめて答えた。
「しょっちゅうやってたなんて思わないでくれよ。 晴さんだけだからね。 大陸方面だけじゃなく連合国とも戦争になった今じゃ、いつ赤紙(戦争への召集令状)が来るかもわからない。 ピンと来るものがあったから、縁につながるかどうか思い切って行動してみた。 清水の舞台から飛び降りるくらい勇気が要ったよ」


 貰った名刺を日記に挟んで取っておいたのは、晴子のほうも吉彦に惹かれるものがあったせいだろう。
 下町には気さくな商人や職人が多い。 会社員が住んでいないわけではないが、吉彦のように垢抜けした若者は珍しく、まだ二十歳前の晴子には目新しくて興味を引かれる存在だった。
 それで四日後の曇り日に、また彼があの狭い小路で立ち往生しているのを見つけたときは、胸が高鳴った。 急いで道を曲がっていって、後ろから声をかけると、吉彦はバネ仕掛のように振り返った。 本当に驚いていた。
「わっ」
 晴子もびっくりして、目を丸くした。
「あの、深見さん、ですよね。 また道をまちがえられました?」
「いや、実は」
 淡い小麦色のうなじから、赤みが頬に広がっていった。
「安西さんのお宅はどこか、訊いていました。 このご近所かと思ったんですが、どなたも知らなくて」






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