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羽衣の夢   9 戦後の混乱

 その放送は雑音がひどく、ラジオの前に集まって耳を澄ませていた人々には、ほとんど聞き取れないぐらいだった。
 だが、耳ざとく内容を悟った人が衝撃で腰を落としたり、叫び出したりしたため、次第に周囲に知れわたった。
 負けたのだ、という虚脱感が、まず襲ってきた。 みんな先行きを不安には思っていたが、敗戦という未来は不思議なほど考えなかった。 だから実感など湧くわけがない。
 ただ、これでもう空襲はなくなった、という僅かな安心感だけが残った。


 戦後一年目は、思い出すだけで辛い。
 アメリカ軍が主力の連合軍が日本に進駐し、社会制度を一度に変えようとしたため、いたる所で混乱が起きた。 それに戦勝国は当たり前の権利として日本の軍需産業のすべてを持ち帰り、貯金も差し押さえて払い戻しを許さなかった。
 一方、援助物資は届かなかった。 実は戦勝国側も長引いた戦争で疲れきっていて、特にヨーロッパでは何もかも足りなくなっていた。 アメリカでさえ物資の不足は深刻だった。
 だからむしろ戦争直後のほうが、大変な物不足になった。 人々は戦中以上に物々交換に励み、密輸を主とするヤミで食料を必死に手に入れた。 もう配給だけでは食べていけなかった。 真面目な裁判官がヤミ物資を拒んで、飢え死にしてしまったという記事が新聞に載ったぐらいだ。


 大企業は差し押さえられ、分解された。 日本の物資が根こそぎ持っていかれる一方、復興を恐れた占領軍は工場の再開を許さない。 空襲で家を失った国民が四百万人以上いるところへ、外地から兵士や引揚者が戻ってきて、さて建てようとしても建築さえ許されなかった。 仕方なく家のない人々は、焼け残りの廃材などでバラックと呼ばれる粗末な小屋を建てて、雨露をしのいだ。


 とうとう終戦から九ヶ月過ぎた五月、二十五万人の人々が皇居前に大集合し、食料を求める大デモを行なった。 それでも暴動化しないという、外国では考えられない静かなデモだったが、さすがに占領軍もこのままでは何が起こるかわからないと察し、それから十月まで六十五万トンの食料を集めて配給した。


 十一月からは、援助はララ物資と名前を変えて、五年半続いた。
 公表されなかったが、この物資はアメリカが送ったものではなく、アメリカの日系二世が日本の惨状を伝え聞いて、他の国の日系移民たちと協力して集めたものだった。




 都心ほどではなかったが、晴子たちの住む郊外でもジープと呼ばれるカーキ色の四輪駆動車があめんぼうのように時々走り回り、兵隊が窓からガムの噛みかすを捨てていく姿が見られた。
 町中は危険だから、若い女性は出歩かないようにと言われていた。 空襲などで親を失った孤児が、新宿の駅構内で寝泊りしているという噂も聞いた。 みんな息を潜めるように暮らし、出征した夫や息子が戻ってくるのを一日千秋の思いで待ち焦がれた。
 晴子は夫への手紙に登志子のことを書いていなかった。 どこの国でも軍事郵便には検閲があって、係官がすべて中身を読む。 子供が生まれたばかりで亡くなったという心の折れる内容は、届けてもらえないかもしれなかったのだ。
 だから、吉彦が一日も早く帰ってくるのを待ちわびながらも、心の隅ではいくらか恐れていた。 妻が育てているのが自分の子ではなく、代わりに拾った身元不明の赤ん坊だと知ったら、夫はどんな反応をするだろう。





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