表紙

羽衣の夢   6 思いやる男

 周囲は見渡す限り土砂降りの雨に包まれ、景色がすりガラスにおおわれたようになった。
 すぐ傍にいる睦夫の声さえ、張り上げないと聞こえない。 しかたなく、彼は手まねで加寿を呼び寄せ、できるだけ足を早く動かして道を曲がった。
 少し行くと、小さな地蔵堂があった。 一坪ほどのささやかな建物だが、庇〔ひさし〕があるし、縁側もある。 吹き付ける驟雨〔しゅうう〕に当たらない位置に、睦夫は赤ん坊をしっかり抱いた加寿を座らせた。
「にわか雨だ。 あと半時間も降りゃ止むから」
「ありがとう、ご親切に」
 加寿は心から言い、蓑を脱いで渡そうとした。 だが睦夫は手を振って断ると、少し笑顔になった。
「もうぐしょぬれだから、家に帰るよ。 小母さんは小降りになったら出かけるといい」
「後で必ず返しますからね」
 まだ地面を打ちつけている雨の中を引き返していく背中に、加寿は声を張り上げた。


 役場で心配して待っていた晴子は、母が蓑虫のようになって急ぎ足でやってくるのを見つけて、喜んで迎えに出た。
「大変だったわねぇ。 さあ登志子、おいで」
「前が見えないぐらいの降りで、凄かった。 ほら、こんなにハネが上がっちゃって」
 泥だらけになったもんぺを見せながら、加寿は無口な睦夫が蓑を貸してくれたことを語った。
「へえ、無愛想だから嫌われてるかと思ったけど、親切な人だったのね」
「あそこはお母さんもいい人よ。 それにお嫁さんも」
「私は話したことない。 美人よね。 夢ニの絵みたいな」
「そうね、ちょっときゃしゃな感じでね」
 実の親子だから話が弾む。 母が興奮して語るのを聞いているうちに、晴子は思いついた。
「お礼をしなきゃ。 雨コートはもうないけど、吉彦さんのゴム長ならしまってあるの。 二足あるから、大きいほうを上げたらどうかしら」
「ああ、足の文数〔もんすう〕を間違えて、ぶかぶかだったあれね?」
「そう」
 新婚当時の失敗を思い出して、晴子は首をすくめて笑った。


 晴子がそこまで感謝するのは、もちろん母のためもあるが、登志子を濡れないようにしてくれた睦夫へのありがたさが大きかった。
 毎日仕事を終えて家に戻ると、晴子は真っ先に棚に安置した実の子のお骨の前に座り、話しかける。 その日に何があったか報告し、育てている赤子が元気なのを感謝し、あの子を通じて天国に行った登志子とつながっていられる幸せを念じた。
 生活はどんどん厳しくなっている。 そして戦地にいる夫が負傷していないか、異国の地で病に倒れてはいないか、夜中に悪夢を見て飛び起きるほど不安がつのる。 内地にいてさえ爆弾が降ってきて命が危ないのだ。
 そんなぎりぎりの暮らしの中、晴子を支えているのは、明るい母と川から救った赤ん坊だった。 





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