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羽衣の夢   5 晩春の日々

 都内の空が真っ赤に燃え上がっているのは、石神井からも見えたということだった。 焼け出されなかったとはいえ、晴子と赤ん坊は同情を集め、転入の手続きをすぐしてもらえたし、あまり沢山持ち帰れなかったおむつ用の布なども、近所の奥さん達が持ち寄ってくれた。
 晴子が御礼を言うと、中道が代表するように手を振って言った。
「いいのよ、着物なら余るほどあるんで。 町中から買出しに来る人がね、上等な着物やら骨董品やら持ってくるんだから。 私らには値打ちなんかわかんないんだけどね」
 食べ物の配給だけではとても足りないので、都市部に残っている留守家族は、田園地帯へ穀物やイモ類などの買出しに出かけた。 金より品物が喜ばれ、世の中は物々交換の時代に戻ったようだった。


 その後も空襲は執拗に続いた。 たまには田んぼの中の駅も機銃掃射されたりして、油断はできなかった。
 自宅に戻った後、晴子は子供をなめるように可愛がり、抱きしめて眠った。 出が止まった乳もふくませた。 深い愛情の表れだったのだが、やがて驚くことが起こった。 二人で暮らしはじめて三日後、再び乳が出始めたのだ。
 晴子は深い喜びにひたった。 やはりこの子は私のために、川を流れてきたのだ。 私とめぐり逢うために。 そう心から思えた。


 手続きが終わって、なんとか生活できるめどがついてから、晴子は下町に留まっている母に手紙を書いた。 やはり都心は危険すぎる。 亡き父と新婚時代からずっと過ごした家は大切だろうが、母の命のほうがもっと大事だ。 高まる危険を避けて、こっちに来てほしい、と。
 六日後に、母は身の回りの品だけかついで、疲れきって石神井にたどり着いた。




 町にも地方にも、若い男の姿はほとんど見えなかった。 たまにいるのは心臓が弱かったり肺に問題のある人たち、重傷を負って戦地から帰された兵士たちだ。 工場では、いなくなった男たちの代わりに、徴用〔ちょうよう〕された女たちが必死で働いていた。
 晴子も赤ん坊とそうのんびりしていられなかった。 結婚前に一時期勤めていた会社で経理を担当していたため、役場の臨時職員をすることになり、通いはじめた。
 授乳時間になると、母の加寿が一里の道を歩いて、登志子を連れてきてくれる。 人好きのする加寿は、道すがら逢う人々とすぐ言葉を交わすようになり、近所の情報をたくさん仕入れた。
 そういった人々の中に、松田一家がいた。 麦とさつまいもを主に作っている農家で、長男と次男が南方に出征していて、三男が両親や長男の妻と共に畑で働いていた。
 睦夫〔むつお〕というその青年は、戦争初期に出兵したとき脚を撃たれ、本土送還になっていた。 もう走ることはできないが、ゆっくりなら歩けるし、農作業も人並み以上にがんばっていた。
 初め、睦夫はいつもむっつりしているように見えた。 立派な顔立ちだが、黙っているときつい感じで、加寿は彼の母親とは気さくに言葉を交わすものの、睦夫には笑いかけるのがせいぜいで、少し敬遠ぎみだった。
 だが晩春のある日、彼への見方が変わった。 その日は朝からよく晴れていたが、加寿が登志子を背負って出かけた二十分後ぐらいからいきなり空が暗くなり、大粒の雨が落ちてきた。
 加寿はあわてて、近くのバス停留所まで走り、屋根の下に入ろうとした。 ところがそのバス停はベンチだけで囲いがない。 困って今度は大木の下に行こうとした。
 そのとき、たまたま一人で畑のうねを耕していた睦夫が頭を上げ、藁でできた蓑〔みの〕を外しながら、はねるようにして近づいてきた。 そして加寿を木陰から連れ出し、蓑をすっぽり被せた。
「木の下は危ない。 雷が鳴ってる」
 そう言い終わると同時に、巨大な雷鳴が頭上で轟いた。





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