表紙

羽衣の夢   4 家に戻って

 詳しく話を聞くと、加寿も晴子から子供を取り上げる気持ちがなくなってきた。 実の母親が必死で子供を探している可能性は、確かにある。 だが、あの地獄のような空襲の最中では、赤ん坊の命が助かっただけで奇跡なのだし、逃げたり殺されたりでこれほど人口が減った今、親子がめぐり合える確率は非常に低かった。


 加寿は一週間、晴子を引きとめた。 その間に川沿いを探し歩く人がいたら、実の母かどうか確かめて、引き渡さなければならないと言い聞かせた。
 四日間がじりじりと過ぎた頃から晴子は荷造りを始めた。 業火が空に水分を舞い上げ雲を作ったのか、大雨が何度も降る。 その湿った陰気な音を耳から閉め出すようにして、晴子はこれから実家の補助なしに暮らす毎日を、懸命に計画した。
 やがて、長かった一週間がようやく過ぎた。 線路がずたずたなので、いつもの駅に電車は来られない。 通じているところまで、近所のおじさんと一緒に行けるよう、顔の広い加寿が手配してくれた。


 進藤というその五十がらみのおじさんは、四代前から神田区に住んでいるという、ちゃきちゃきの下町っ子だ。 刃物職人だが、鉄不足で家庭の鍋釜や寺の鐘まで供出するこの頃では仕事がほとんどなく、田舎の農家へ買出しに行くときの荷物運びなどをしてお茶を濁していた。
 進藤の引く大八車は、行きはほぼ空だ。 だから晴子の荷物を載せてもらえた。 晴子は赤ん坊を背に負って、木製の持ち手がついた布袋をしっかり持ち、母に別れを告げて、徒歩の旅に出発した。




 朝に下町を出て、石神井に着いたのは日が傾く頃だった。
 雑木林に野原が続き、畑の中に家が点在するおなじみの景色だ。 殺気立った実家付近とはまるで別世界のように静かだが、行き逢う人々の顔は疲れていて、生活の不安がにじみ出ていた。
 その中に、近所の人の姿を見つけた。 ほぼ同時に相手も気付き、手を振ってやってきた。
「深見さん! まあよかった! 赤ちゃんも無事生まれて」
 なじみの顔を見ると気分が落着く。 晴子も笑顔になって、中道〔なかみち〕のおばさんとの再会を喜んだ。
 中道は、晴子が両手に下げた重い荷物の片方をすぐ手に取って、運んでくれた。
「確か都内の神田川のそばに里帰りしてたんだよね? ものすごい空襲で、よく助かったね」
 母と同じぐらいの年齢の中道に、晴子は身振りを交えながら語った。 対岸はほぼ全焼したが、こちらは神がかりの団結力で、ぎりぎり火事を防いだことを。
 中道は何度もうなずき、時に体を震わせながら話を聞いた。
「ほんとに奇跡だ。 それにしてもなんてかわいい子だろうね。 もう名前つけた?」
「ええ」
 晴子の声に張りが出た。
「登志子〔としこ〕っていいます。 戦地で主人が考えてくれて」
「いい名前だ。 もう届け出した?」
 出生届はまだだった。 生まれた子が生き延びるとわかるまで、一週間から二週間ほど届けを待つのは、よくあることだったのだ。
 それがこのときは、晴子に幸いした。
「まだです。 こっちで出して、大事に育てます」
「ほんとにかわいい。 ねぇ、よちよち」
 子供好きな中道は、おぶわれて手足を無邪気に動かしている『登志子』に、こぼれるような笑顔を見せてあやした。





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