表紙目次文頭前頁次頁
表紙


38 闇を逃れて



もう使い物にならない傘を手に持ったまま、斉は低い声で提案した。
「ここにいるのは危険だよ。 でも家に入っても不安だろ? 今夜はうちに来るといい。 兄貴も絶対そのほうがいいとって言うよ」
「でも」
 母屋を振り返って、円香はためらった。
「大垣さんを一人にするわけには」
「もう寝てる?」
「ええ、ぐっすりと」
「じゃ、起こしちゃかえって心配させるだけだ。 蔦野さん、夜中に起きるかな」
「ベッドを換えてから熟睡なさってるみたいだし、トイレは一人で行ける」
「それなら君がちょっといなくなっても気づかないよ。 念のため、茶の間にメモ残してけば?」
 円香は腕で体を抱いた。 普段は何とも思わない雨の音が、今夜はひどく陰気で不気味に聞こえる。 気持ちがもろくなっているのに気づいて、円香は訴えるように斉を見上げた。
「ほんとに行ってもいい?」
「いいに決まってんじゃん」
 斉は力強くうなずいた。 それで円香は、壊れた傘を持って玄関へ引き返し、茶の間の電話メモに大き目の字で短く書いた。
『ちょっと上矢さんのお宅へ行ってきます。 すぐ戻ります』


 やはり気が動転しているのだろう。 円香は新しい傘を持ってくるのを忘れた。 それで男用の傘に二人で入って、上矢家への道のりを急いだ。
 歩いている間も、斉は周りに鋭く目を配った。
「オレがちらっと見たとこじゃ、大き目の車だったと思う」
「そうね」
「軽じゃない。 それは確かだ。 宅配の声は男だったよね?」
「うん」
「男で、デカめの車に乗ってるとすると、わりと金あるやつだ。 形にあんまり特徴なかったから、派手な外車でもなさそうだ」
 斉は目を細めて、懸命に少ない情報を思い出そうとした。
「あれが盗難車でなけりゃ、金のある中年の車かも」
「そんな人に知り合いないよ」
 円香はささやき返した。
「前はふつうのOLで、パシリみたいなもんだったし、その前は貧乏大学生だった。 短大行くのが精一杯で」
 少し間を置いて、斉はつぶやいた。
「苦労してんだな」


 六分ほどの道が、いつまでも続くように思えた。 ようやく上矢家の表門前にたどり着くと、斉はそっと円香を通して、玄関を開けて中に入れ、きちんと施錠してから、声を出した。
「ただいま。 人連れてきたよ。 今上がるから」
 その声に差し迫った感じがあったのかもしれない。 居間の扉がすぐ開いて、ゆったりとしたカーディガンを羽織った父親が顔を出した。
「どうした? 友達泊めるのか?」
 そこで声が止まり、まじまじと円香の顔を見つめた。
「どうした、円香さん? 真っ青だよ」







表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送