冬が来れば・001

１　初お目見え

　ここは本州の真ん中あたり。
　都会の周囲に広がる郊外地域の外れにある。
　仮に『蜜柑町〔みかんちょう〕』としておこう。　どうってことのない普通の町だ。　駅は高架で下に商店街が伸び、五○メートルごとにコンビニが点在し、公園とコミュニティセンターが背中合わせになっているような。

　住んでいる人々もごく普通だ。
　都心に通う勤め人が六割近くで、商店の人、老人たちに子供たち、パートのお母さんたち、たまに農業従事者もいる。　そんな感じ。
　近所のつながりはそこそこだ。　アパートの住人はあまり人付き合いをしないが、家持ちはさすがに顔見知りで、会えば挨拶を交わした。

　二丁目の最近の話題は、角の大垣〔おおがき〕さんのことだった。　いわゆる土地っ子で、明治時代から蜜柑町に住み着いている。　昭和の半ばまでは四人家族で景気良くやっていた。　しかし、そのころ年老いた両親が相次いで亡くなり、兄は転勤で行った九州で恋愛して向こうで家を持った。
　そして妹の蔦野〔つたの〕さんだけが残った。

　蔦野さんは近所で評判の美人だったという。　なぜ結婚しなかったのかは謎だ。　ともかく独り身を通して、現在では八○代。　それもたぶん後半だ。
　きちんとした人で、ほぼ毎朝家の前を掃いている。　その姿を見て、近くの人は安心した。　ああ、今日も大垣さんは元気でやってるな、と。
　しかし、一人で広い邸内を手入れするには、さすがに無理があった。　なにしろ本物のお屋敷なのだ。　このご時勢に宅地が五百坪もあっては、固定資産税をどうやって支払っているのかと密かな話題になるほどだった。

「こんなこといいたくないけど、まさかの時は九州のお兄さんが戻ってきて、お葬式とかいろいろするんでしょう？」
「それが、お兄さんは四年前に亡くなっちゃったのよ。　それで大垣さん、なんだか急に老けてね」
「そうなの～、大変ね。　じゃ、甥とか姪とかは？」
「お兄さん子供いなかったんだって」
「じゃ、親戚は誰も？」
「それはよく知らないけど、親しい人がいないのは確かね。　昔の友達はみんな死んじゃったって言ってたし、お宅に誰も来ないし」
　近所の小さな食堂のおかみさんと、バイク屋の奥さんが、ゴミ出しのついでに話し合っていた。

　隣り近所の不安は、蔦野さんが孤老死しないかということだった。　門から玄関まで三○メートルもあるような家だから、急にどこか悪くなって助けを呼んでも、たぶん聞こえないだろう。　ヘルパーさんを雇ったらと何度もほのめかしているのだが、蔦野さんはあいまいにごまかすだけで、民生委員の人でさえ家には入れず、玄関口で丁重に追い返してしまう。
　だから周囲はそれ以上言えなかった。　大垣家の屋敷は立派だが、いかにも古びているし、広大な裏庭は何年も手入れしなかったためジャングル状態だ。　ヘルパーを雇うお金があるとは思えない。　それに今のところ本人がかくしゃくとしていて、頭もはっきりしているのがわかっているので、あまりお節介もできないでいた。

　姿が見えなくなって二日したら、役所の保険課へ連絡しよう。　隣の上矢〔じょうや〕一家はそう取り決めていた。　父の上矢和俊〔じょうや　かずとし〕はこの土地育ちで、子供時代はけっこう腕白だったのだが、隣の敷地に入り込んでイチジクの実を採ろうとして木から落ちたとき、蔦野さんは腕をくじいた彼を病院へ連れて行ってくれて、少しも怒らずに言ったのだ。
「あの実は食べ切れなくて、半分はだめにしてしまうから、今年からお宅にお分けするわ」
　それ以来、和俊氏はサンダル会社の重役になった今でも、蔦野さんに好意を持ち、気にかけていた。

　その年の夏は暑かった。　蔦野さんも少し弱り、食欲が出なくてね、とこぼしていた。　だから九月の終わりに涼風が吹き出したときには、町中が生き返ったようになった。
　そして十月の半ば、まるで秋の風に乗ったように、助っ人が現れた。　最初に出会ったのは、上矢の長男の保〔たもつ〕だった。
　うす曇の土曜日で、保は父の会社の試供品を履いて、近くのコンビニへ人気のクリームメロンパンを買いに行った帰り道、ばったり彼女に出会った。　つばの広い帽子を被り、真っ白なカットソーのシャツに薄手のベストを軽く羽織って、ゆるめのスキニーパンツはチャコールだった。
　さりげない服装なのに、決まっていた。　保のほうはといえば、裸足にジャージのズボンで、着心地はいいが伸びきった去年の縞シャツだ。　おまけに無精ひげまで伸びていた。　何しろさっき起きたばかりだ。
　さりげなく決めた娘は、まっすぐ保の顔を見ていた。　服装には目もくれない。　にこっとして、かわいいけれど甘すぎない声で尋ねた。
「すいません、大垣さんのお宅はこの近くですか？」

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