表紙目次文頭前頁次頁
表紙


35 引っ越して



 翌朝の九時、円香の引越し荷物が届いた。 母屋を騒がせないよう、円香は離れに近いほうの裏門の鍵を貸してもらって、そちらから搬入してもらった。 それでも引越し業者は屋敷の立派さに圧倒されたようで、すごいお宅のお嬢さんなんですね、とお世辞を言った。
 円香はあっさりと打ち消してしまった。
「ちがいますよ。 私は住み込みのヘルパーってだけです」
 ところが、こっちの発言のほうが更に相手にされなかった。
「お客さんが? また冗談言っちゃって。 こんな美人のヘルパーさんがいたら、ぜひうちのおかんにも頼みたいですよ。 金があればだけど」


 前もって予定した場所に彼らがきっちりと家具を運び込んでくれたため、後はそれほど手がかからなかった。 衣服はもう整理済みで、中に入れるだけだし、他の荷物は少なかった。 これまで引越しが多かったので、雑誌などは読んだらすぐ処分することにしていた上、本はできるだけ電子書籍を買っていた。
 ということで、昼食を挟んで午後の三時には、きれいに片付いた。 円香はほっとして、蔦野のところへ挨拶に行った。
「引越し、終わりました。 お騒がせしました」
 老眼鏡をかけて編み物の本を眺めていた蔦野は、驚いたように顔を上げた。
「もう? 何をやっても手早いのね」
「荷物が少ないですから」
「離れは文字通りここから離れていて、少しぐらい大きな音がしても全然聞こえないのよ。 だから好きな音楽をがんがんかけて大丈夫よ。 楽しんでね」
「はい」
 円香には家でカラオケする趣味はないし、大音量の曲は好きではなかった。 ただ、前からピアノをやっていた関係で、キーボードだけ持ち込んでいた。 会社でストレスがあるときには、ヘッドホンをつけて夜中に弾きまくったものだ。 ここへ来てからは、ほとんどそんな気持ちになることはなかったが。


 翌日の月曜日も、次の火曜日も晴れで、平和なときが続いた。 毎朝円香は玄関前を掃き、いそいそと出てくる保と短く言葉を交わして、幸せな気分になった。
 そういえば斉は初めからまったくこの道を通らない。 なんとなく気になって、三日目の水曜日、そろそろ雨が降りそうな曇りの朝、円香は保にさりげなく訊いてみた。
「保さんは毎朝こっちだけど、斉さんが来るのは見たことないな」
「ああ、あいつは私鉄だから反対方向」
「そうなんだ」
 円香はちょっと安心した。 もしかすると避けられているのかもしれないと、密かに疑っていたのだ。
 気がつくと、保か本格的に立ち止まって円香の目を見ていた。
「あいつのこと、どう思った?」
 円香はそこで、ふっと思い出し笑いをしてしまった。
「ちょっと見、年下だと思ってた。 怒ってた?」
「いや、あいつはいつもだいだい無愛想だから」
 肩の力を目立たないように抜いて、保は穏やかに答えた。






表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送