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表紙


30 不愉快な男



翌日は晴れで、きれいなうろこ雲が空にかかっていた。
 風もなく外出日和だ。 円香は午前中に買い物を済ませてしまおうと思い、自転車に乗って商店街に出かけた。 食料品を少し買った後、化粧品店のショーウィンドウでふと、いい色の口紅を見つけ、無性に買いたくなった。 国産品なので値段も手ごろだ。 それで、店に入ってリップライナーとそろえて買い込んだ。
 自分のための買い物は、ささやかでも楽しい。 円香は明るい気分で店を出て、自転車のスタンドを外そうと片足を上げた。
 その瞬間、誰かに押された。 一本足で立っていたため、円香はバランスを崩し、店の前でしりもちをついた。 その上に自転車が倒れてきて、太ももを強く打った。
 休日の午前中なので人通りは少なかった。 でも店の女主人が見ていて、急いで出てきて自転車を上からどけてくれた。
「まあまあ、大丈夫ですか?」
 脚は痛かったが、円香はすばやく立ち上がり、笑顔で礼を言った。
「はい、ありがとうございます」
 女主人は顔をしかめて道路の先を眺めた。
「えらく急いでましたよ。 お客さんにぶつかっても見向きもしないで」
 円香も女主人の見ている方向を振り返った。
「男の人でした?」
「そうね、毛糸の帽子かぶってマスクして、ジャンパー着てたみたいだったけど。 もう見えないわね」
 今日は薄い色のコートを着てこなくてよかった、と、円香は思った。


 大垣邸に戻っても、円香はそのささやかな出来事を蔦野には話さなかった。 なんとなく悪意を感じる行為だったが、若い女の注意を惹きたいという変質者もどきのやったことかもしれないとも思える。 今の時期、蔦野さんは土地のことで敏感になっているから、余計なことは耳に入れないほうがいいと感じた。
 やがて嫌な記憶は急速に薄れ、午後には期待と不安がいっぱいにふくらんだ。 初めての家庭訪問だから、目立たないぐらいの服にしよう。 肌を明るく見せてくれる淡いクリーム色のセーターにおとなしい形のグレーのパンツを合わせて、襟の替わりに小さなショールのついた細かいチェックのフリースコートにした。 蔦野さんにまず見せると、気に入った様子で、上品でいいわね、と言ってくれた。


 さっき買ったお土産のミルクマカロンの袋を持って、どきどきしながら待っていると、四時十分前にチャイムが鳴った。 円香は蔦野に、いってきますと挨拶して、躍るような足取りで家を出た。






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