表紙目次文頭前頁次頁
表紙


26 その言葉は



円香を大垣家へ送り届けてから、保はぼうっとしたまま自宅まで歩き続けた。 途中で二度もつまずいて、酔っ払ったみたいだと苦笑した。 実際、ほろ酔いと同じ状態だったのかもしれない。
 円香がそばにいるだけで楽しかった。 彼女からあったかいオーラが出ているような気がした。 斉に横流れしてしまった女を含め、これでも三人と付き合っているから、恋のときめきを知らないわけではないのに、こんな気持ちになったのは確実に初めてだった。
 とうとうオレも本命にめぐりあったんだなあ── そう思うと体が震えた。 家族を早く失った円香を幸せにしてやりたいと、心から感じた。


「ただいま」
 挨拶は社会生活の原点だという父に従って、上矢家では斉でさえ、出入りの挨拶はしっかりとする。 保がいつものように玄関で声を掛けると、リビングから母が顔を出して嬉しそうに言った。
「わあ、揃った揃った。 久しぶりね、全員が晩御飯に顔そろえるの」
「ふーん、じゃすぐ着換えてくる」
「今夜はカレーよ」
「肉ごろごろ?」
 ただよう匂いでわかっていたが、保は一応訊いてみた。 母の声が嬉しそうに後ろから追いかけてきた。
「てんこ盛り!」


 牛肉が南氷洋の氷山みたいに浮かんだカレーを前に置いて、その夜は話も弾んだ。 父は新製品のサボが好調で機嫌が良く、ビールを飲みながら、院生の斉が中古車をまだ欲しがっているならいくらか援助してやろうと言い出していた。
「うん、まだはっきり決めてないから。 意外に維持費かかるしな」
「就職して給料もらうまで待つか?」
「それもタルイ」
「バイクはだめだぞ」
「わかってる」
 従兄弟の一人がバイクで横滑り事故を起こし、重傷を負って以来、上矢一族ではモーターバイクは禁句になっていた。
 一方、保は近くの母に話していた。 話さずにはいられなかった。
「あの、オレ、付き合う人できた」
「ほお」
 母親はスプーンを止めて眼を光らせた。
「それはおめでとう」
「で、今度の週末、来てもらおうと思うんだけど」
「大歓迎だよ」
「ほんとにいい人なんだ。 働き者で」
「会社の人?」
 母がそう訊くと、とたんに父親が耳をそばだてた。
「え? そうなのか?」
「ちがうよ。 近所の人」
 これで斉までが興味を示した。
「なに? もしかして小学校の同級生とか?」
「ちがう。 隣に来た人だよ。 大垣さん家に」


 母親が本格的にスプーンを置いてしまった。
「へえ、そうなの? かわいい人なんだってね。 噂は聞いたけど、まだ見てない」
「あの用心深い蔦野さんが、初めて同居したんだろ?」
 父親も少し興奮しはじめた。
「これは面白くなってきたな。 保、おまえひょっとしたら、逆玉狙えるかもな」






表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送