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表紙


22 準備の始め



 さて、と。
 月末ぎりぎりになってしまった。 円香は裏庭を掃除していた蔦野が戻ってくるのを待って、二人で朝食を取り、その場で本式に荷物をこちらへ持ってくると挨拶した。
「大垣さんはお元気で、何でもおやりになれるから、私がいても大して役に立てないんですけど」
「いいえ、そんな!」
 話の半ばから、蔦野はもう笑みくずれていた。
「奇跡だわ、奇跡。 あなたみたいな若くて性格のいいお嬢さんが、赤の他人のおばあちゃんのそばにいてくださるなんて。
 私は年寄りだし偏屈だから、迷惑をかけるんじゃないかと心配だったけれど、あなたは素直だし、やることなすことほんとに可愛いの。 それにあんな電話みたいなことがあると不安だし。 ひとり暮らしで初めて怖いと思ったわ」
 可愛いのは蔦野さんのほうだ、と円香は密かに思った。 ずっとひとりで家を守ってきた気丈な人だが、いったん心を許すと明るくて冗談好きで、しかもさっぱりしていて、実に話しやすい。 世の中の老人がみんなこんなに健康で前向きなら、高齢者問題なんて吹き飛んでしまいそうだ。
 すると蔦野が、まるで円香の心を読んだように、昆布茶をつぎながら静かに付け加えた。
「あなた二二歳よね? 私の年の四分の一。 今は結婚が遅くなったから、もう少しそばにいてもらえるでしょうけど、すぐにいい人が現れるわ。 私の夢は、あなたが近くにいてくれる間に、迷惑かけずにポックリ行くこと」
 円香はぎょっとなった。 すでに相当蔦野さんが好きになっていたので、彼女が死ぬことなど考えたくもなかった。
「そんなこと言わないでください。 ポックリって残されたほうはつらいです。 うちのおじいちゃんがそうで、元気にカメラ持って野草の撮影に出かけて、動脈瘤破裂になって、病院へ駆けつけたときには冷たくなってたんです」
 話しているうちに涙があふれてきた。 母方の祖父母は親同然で、円香はいわば二度も両親と死に別れたことになるのだ。
「仲のいい夫婦だったから、おばあちゃんもその後、急に弱って、二年もしないうちに逝ってしまいました。 半年看病できてよかったです。 おじいちゃんが保険金を残してくれたから、やれることはすべてやったし」
 気がつくと、蔦野の暖かい手が円香の指を握ってくれていた。
「まだ十代の娘さんが、えらかったわね」
 必死だったのだ。 おばあちゃんには一日でも長生きしてほしかった。 もう一人きりになりたくなかった。
 その後、父方の祖父のもとへ身を寄せたが、祖父は認知症ぎみで、円香を覚えているときもあれば、すっかり忘れることもあり、家を担保にして老人ホームへ入ってからはすっかり動かなくなって、間もなく世を去った。
 別ればかりの人生だった。 だからこそ、これからは出会いがずっと続く毎日にしたかった。 蔦野さんのような元気な老人を見ると、気持ちが明るくなる。 世の中には百歳を越える人もけっこういることだし。
 円香は不意に白昼夢を見た。 蔦野さんがくれるという土地に、まだ蔦野さんが元気なうちに保さんと一緒に家を建てられたら。 庭で子供が遊び、円香はこの屋敷へ通って、蔦野さんと世間話をし、映画を見たり音楽を聴いたりして楽しく過ごす。 蔦野さんは最期まで、住み慣れた自分の家で幸せに暮らせるし、私も賢い蔦野さんからいろんなことを教われる。
 そうなったらどんなにいいだろう。 蔦野さんの細い手をそっと握り返しながら、円香は久しぶりに祖母の感触を思い出していた。  






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