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表紙


15 言い間違い



同時刻、円香のほうもそわそわしていた。 午前中に、面倒で体力の要る風呂場とトイレの掃除をすませ、バスで駅前まで買い物に行くんだと張り切っている蔦野の服選びを手伝った。
「お嬢さんにトイレ掃除までしてもらっちゃって。 ほんとに悪いわねえ」
「いいえ。 私お嬢さんじゃないですし」
 それを言うなら、蔦野さんのほうがよっぽどお嬢様育ちだろう。 なのにこれまでずっと、一人で家中を掃除してきたのだという。 用心深い性質で他人を入れたくなかったからだろうが、それにしても偉いと円香は思った。
 なお、円香は高校の剣道部の合宿で、順番にトイレ(すごく古い)の掃除当番をしたことがあるため、きちんと手入れされた一般家庭の水周りなど何の負担にもならなかった。
「やっと雨上がったわねえ。 ずっとびしょびしょでくさくさしてたから、丸尾〔まるお〕さんとお買い物して、ついでに二人でお昼食べてくるわ」
「楽しんできてくださいね」
「はい、たっぷり楽しんできますよ〜。 そうだ、あなたの写真、一枚撮らせてもらっていい? 丸尾さんに見せてあげたいの」
「はい」
 何気なく答えた円香は、蔦野が引き出しからミント色の円っこいカメラを出してきて、パチッとやったので、ちょっとびっくりした。
「スマホで撮るのかと思った」
「インスタントカメラよ。 おばあちゃん仲間で撮り合いすると楽しいの。 ほら、室内でもきれいに撮れるでしょう?」
 すぐに出てきた写真を大事そうにバッグの中にしまいこみ、蔦野は暖かい裏起毛のスラックスに、薄着でも寒くないという特別製の防寒防水ジャケットを着て、さっそうと出ていった。 九○歳近くにしては足が丈夫で、膝も悪くないという。
「寝たきりにはできるだけなりたくないものね。 じゃ、行ってきますね」
「バス停までお送りします」
 円香は普段着に毛糸のポンチョを被った気軽な姿で、蔦野を百メートルほど離れたバス停まで送っていった。 その間も丸尾さんのことやデパートの話など、雑談が続いた。 こんなに年が離れているのに、二人の話のリズムは近く、気楽に語れるので、住み込んで一週間以上過ぎた今では、ごく自然に話し合うことができた。
 うまく乗り込んで後ろの席に座った蔦野と手を振り合い、見送った後、円香は辺りを見回した。 今のうちに掃除用の手袋を買っておきたい。 今日は蔦野さんのを使ったが、指の長さが違うため、先が破れそうになったのだ。 スーパーまではもう一五○メートルほど歩かなくてはならないので、自転車でないと面倒くさかった。
 薬局とかないだろうか。 やっぱり午後に上矢さんから近所を案内してもらうことにして、よかった。 よさげな店をいろいろメモっておかなきゃ、と思っていると、不意に声を掛けられた。
「あれ、チャリもう壊れた?」
 え?
 なれなれしい声に振り向くと、魅力的な男子がゆったり近づいてきた。 円香は一瞬首をかしげ、その後思い出した。
「ああ、スーパーの」
「いちおう覚えてた?」
 口調にかすかな皮肉が混じっていた。 忘れられるはずないと思ってるんだ。 そう気づいて、円香はちょっと白けた。 これだからイケメンは。
「自転車は大丈夫だよ〜。 いくら安くても、一回乗っただけじゃ壊れないから」
「まだ一回? 雨ばっかだったもんな」
 そこへ交差点から次のバスが曲がってきた。 男から近づかれると逃げたくなる円香は、急いでイケメンくんに声を掛けた。
「バス来たよ」
 彼は顔を上げて行き先表示を眺め、首を振った。
「これじゃない」
 知ったことか。 円香はすたすたとスーパー方面へ歩き出した。 するとイケメンもついてきた。
「バス乗らないの?」
「君こそ乗るんじゃないの?」
「私は見送りに来ただけ」
「じゃ、家に帰るんだ」
「ちがう」
 この人、私がどこに住んでるか知りたいのか?
 円香は引いた。 どん引きになって、あわてて本当の行き先を話そうとした。
「ゴム……ゴム製品買えるところ探してる」


 焦ったんだ。 そうとう焦って、上がっていたのかもしれない。 ゴム手袋と言おうとして、手袋という言葉を度忘れした。
 相手が黙ったので、なんともいえない気分で顔を上げると、イケメンがポッと赤くなっているのが見えた。






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