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表紙


11 親切な友達



 新しく買った自転車は、なかなか調子が良かった。 すいすいとなめらかに走るので、円香が嬉しくなって風を切ってペダルを踏んでいると、コートのポケットに入っているスマホが小さく鳴った。
 小道の端に自転車を寄せて止め、円香は電話を出した。 元の会社の同僚からだった。
「久慈〔くじ〕ちゃん? なつかしい」
 電話の向こうから、いつものせわしない口調が返ってきた。
「なつかしいって、小田島ちゃんが辞めてからまだ一ヶ月じゃん。 元気?」
「うん、元気だよ」
「そうらしいね、声に張りがあるもん。 それで、仕事どう? なかなかいいの見つかんないでしょ?」
 円香はちょっと迷いながら答えた。
「見つかった。 運よく」
「えー〜〜」
 久慈明奈〔くじ あきな〕は大げさに驚いた。
「早いねー。 給料いい?」
「そこそこ」
「ふーん、よかった。 あんな形で辞めたから、石田〔いしだ〕が手回して邪魔してないかって噂が立って」


 とたんに勘違い上司の顔が目の前に広がり、円香はしかめっ面になった。 他の先輩に対するときと同じように愛想よく口を利いただけなのに、あの新入りの子オレに気があるんだなどと自慢したあげく、円香が資材課のハンサム課長と同じように話していると嫉妬したらしく、急に意地悪を始めた奴だ。 彼のまったくの独り相撲だった。
 それは同じ課の中でも評判になっていて、石田課長は男の更年期だなどと囁かれた。 円香は用心して、彼と二人だけにならないように気をつけていた。
 そのことが、ますます石田の気に触ったらしい。 書類上のささいなミスを見つけて、声高に文句をつけてきたのだが、あいにく、その書類の担当は円香ではなかった。
 私が提出したのはこちらです、と、円香は彼に言った。 普通のおだやかな言い方で。 するとなぜか逆上した石田は、口答えするのか! と叫び、手近にあったものをぶつけてきた。 それがたまたま、まだ中身の熱いコーヒーカップだった。
 プラ製だから怪我をすることはなかったが、熱さははっきりと感じたし、お気に入りのライトグリーンのジャケットと白のブラウスに茶色のしみが広がった。 久慈がすぐ飛んできてくれて、火傷したら大変、すぐ冷やさなきゃ、と円香を抱くようにしてトイレに引っ張っていったのを覚えている。


 ちゃんとした会社だったから、動きは早かった。 石田は懲戒処分になり、出世の道が閉ざされたも同然になった。 でも、円香も居づらくなった。 春に入社して、少しは仕事がわかって来た矢先に、この騒ぎだ。 会社には慰留されたし、久慈や境などの同僚にも励まされたが、中には上司に色目使うからだと心無い声が聞こえてきたりして、結局は退職届を出した。
 こういうとき、一人だと立場が弱いなあと、円香は現実社会を思い知った。 普通の新入社員なら、親が黙っていないだろう。 少なくとも、相談したら慰めてくれるはずだ。 でも円香は大学在学中に祖父母を相次いで失い、看病に始まって葬式の手配から埋葬まですべて自分だけで行った。 精神的に強くなるが、孤独だった。


 雇用期間終了まで一ヶ月、我慢して会社に通った後、同期の仲間が五人来て、お別れ会をしてくれた。 それだけでも自分は恵まれたほうだったと、円香は思う。 同年代には好かれていたようだ。
 そして、祖父母の残してくれた家が比較的新しくて、人に貸すことができたのも幸運だった。 九万円ちょっとの家賃と失業保険でつましく暮らしながら、次の職場を探している最中に、大垣蔦野から思いも寄らない手紙が届いたのだ。


 苦い思い出から覚めると、久慈はまだ残念そうに話し続けていた。
「いい話なんだけど。 美術館の受付なの。 気が利いて人に好かれるタイプの人がほしいんだって。 給料は二百万ちょっと。 高くはないけどボーナス出るし、どうかなと思って」
「ありがとう」
 円香は心から感謝した。 久慈は本当に人柄がいい。
「私のこと気にしてくれて、ほんとにありがたいと思う。 一週間前ならきっと面接に行ったわ。 今の仕事も給料そのぐらい。 ただ自由時間がわりとあってね、資格を取る勉強ができるの」
「そうなんだ、よかったね。 まだお互い先が長いもんね」
 久慈はあきらめ、二人はそれから十分ほど世間話を交わした。






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