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9 自転車購入



保が思い出したくない過去をよみがえらせて、げっそりとなった日の翌朝、円香は彼の期待など知らず、朝の玄関前掃除を早めに終わらせて、せっせと洗濯物を干していた。
 その日は水曜日で、新聞のチラシによると、一番近いスーパーの『みまつや』で午前中に牛肉とブロッコリーの特売をする予定だった。 一人暮らしの蔦野は小さなカートを押して買い物に行き、二、三日に一回必要品を少しずつ買って帰ってくる暮らしだったようだ。 でも大垣邸には立派な冷凍冷蔵庫があるし、これから食事は二人分だから、買い物の量を多めにしようと円香は考えた。
 それで早起きの蔦野に、何を買ってくるべきか訊き、メモを作った。 そのメモは、しっかり手持ちのトートバッグのポケットに入れてある。 ポケットマネーと相談して、円香は自転車を買おうと決めた。 チャリなら籠に入れて、重めの荷物が運べるからだ。


 まだ来て二日目だが、二人はうまくいっていた。 おばあちゃん子の円香が礼儀正しくて和食を好むので、蔦野は喜び、今でも好奇心一杯で明るい蔦野を、円香はすぐ好きになった。
 円香は初め、蔦野と一緒に買い物へ行きたかった。 そうすればスーパーへの道順がすぐわかるし、近所の人に会えば紹介してもらえるからだ。 蔦野もそのつもりだったが、あいにく朝になって、土曜日にぶつけたふくらはぎが痛むのに気づいた。
 円香は心配になった。
「少し腫れてますよ。 お医者に見せたほうがいいですよ」
「いいの」
 蔦野はきっぱり言った。
「打ち身は初め冷やして、腫れが引きかけたら暖めるといいのよ。 兄が柔道をやっててね、いつもそのやり方で直していたわ」
 これでも昨日に比べると腫れは小さくなっているようだ、と、蔦野さんは楽観的だった。 円香は念のため、蔦野の足に触ってみて、骨はなんともなさそうなので、やや安心した。
「そうですね、大丈夫そう」
「いい子。 心配しすぎないのがありがたいわ」
 そう蔦野は安心した様子で言った。 年寄り扱いされるのは嫌なのだろう。 円香にもなんとなくその気持ちがわかった。


 だから十時を回ったところで、円香はトートバッグを下げて家を出た。 蔦野に教わった通りを歩きながら、スマホで再度たしかめた。
「ええと、二丁目十五番地から二二番地と。 この四つ角を左だな」
 けっこう曲がり道が多かった。 三度も曲がってようやく大通りに出ても、歯医者の看板が邪魔になって、店に気づくのが遅くなった。
 店内はけっこう混雑していた。 円香ががんばって五百グラムの牛ロースをゲットしたとき、肉コーナーのパックはもう半分以下に減っていた。


 まず大事な買い物をすませてから、円香はシティサイクルのコーナーへ向かった。 ピカピカの新車が何台も並んでいて、迷った。 あまりかっこいいと盗まれやすいと、前に友達に聞いたことがある。 地味な二六インチを探していると、二万円台のマウンテンバイクを眺めていた若い男にぶつかりかけた。
「あ、すいません」
 男は振り返り、黒のスキニーパンツとライトグレーのジャケット、細かいチェックのフリースという服装の円香に目をやった。 そして言った。
「あれ、何考えてたんだか忘れた」





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